「易経」は、どんなときもめぐりめぐって変化していく、と教えています。苦しいときはずっとつづくのではなく、かならず楽しいときがくる。同じように、いいときもずっとはつづかない。だから好調のときこそ警戒心がひつようだよと注意しています。
~竹村亞希子/都築佳つ良「こどものための易経」(致知出版社)P68
万物流転は大自然の原則。陰陽相対の中にこの身を持つ僕たちはその中にあって真実を、真理を見出し、読み解かねばならない。
わずか35年という短い生涯に、モーツァルトは山も谷も経験した。
のっぴきならない貧困の中においても、彼は類稀なる創造力によって後世に伝わるべき数多の傑作を残した。
モーツァルトの作風には、変化が兆しつつあった。ウィーン時代の「春」とも呼ぶべき1781~84年の作品が聴衆を意識し、平易に、口当たりよく書かれる傾向があったのに対し、その「夏」、1785~88年の作品には、目に見えて表現の厳しさと深さが加わってくる。ときには、あえてわが道をゆくといった趣の、難解を指摘される作品さえ書かれた(たとえばピアノ四重奏曲ト短調K478)。84年のピアノ協奏曲6曲(第14~19番)と85~86年のピアノ協奏曲6曲(第20~25番)を比べると、その傾向は明らかだろう。そうした流れの中に屹立するのが、歌劇《フィガロの結婚》K492(1786年5月初演)である。
~礒山雅著「モーツァルト」(ちくま学芸文庫)P36
短期間にこれほどまでの深化を遂げたモーツァルトは、ある意味生き急いでいたのかもしれない。否、天がそういう宿命を与え、彼はただその使命を全うした(おそらく後悔はないと思う)。
ちなみに、堂々たる様相の傑作ピアノ協奏曲変ホ長調K.482は1785年12月16日に完成された。
モーツァルトはベートーヴェンと同じように、ある種の調性と特別なつながりを持っている。ベートーヴェンにおけるハ短調が特別な性格を持っているように見えるのは、だれでも思い当たるところだが、この調性で書かれた3曲のピアノ・ソナタ、1曲のヴァイオリン・ソナタ、ピアノ協奏曲第3番、初期の弦楽四重奏曲、そしてハ短調の交響曲などを考えてみればすぐにわかることである。モーツァルトにおいてそれとわかる特徴ある調性は、ト短調と変ホ長調である。偉大な2曲の交響曲(K543、K550)が相互の特徴をよく示しているが、他にもト短調では、弦楽五重奏曲(K516)とピアノ四重奏曲(K478)、《魔笛》の第2幕のパミーナのアリアなどがあり、変ホ長調では《魔笛》の序曲や最後の合唱、ヴァイオリン・ソナタ、《フィガロの結婚》で伯爵夫人が歌う最初のアリア、それにト短調の交響曲や五重奏曲の緩徐楽章などがあげられよう。この最後の例でもわかるように、ト短調と変ホ長調の間には密接な関係が存在する。
~エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P67
内なる闇に一条の光が差し込むとき、人は希望と安らぎを思う。
表裏一体の調性を、企図せず生み出せるモーツァルトの天才。
主題がトゥッティで示される第1楽章アレグロ(変ホ長調)の巨大さ。対して、第2楽章アンダンテ(ハ短調)の物憂げで、内省的な調べに心が動く。そして、前2つの楽章を統べる終楽章アレグロの解放の何という重み。重厚なその質感は、それまでの彼の作品を超越し、次代のベートーヴェンの音楽を先取りするかのようだ。
なお、バレンボイムは第1楽章のカデンツァに自作のものを、終楽章のカデンツァにエドウィン・フィッシャー作のものを弾いている。
一方の逸品ピアノ協奏曲イ長調K.488は1786年3月2日に完成している。
優美な主題を持つ第1楽章アレグロが実に美しい。あるいは嬰ヘ短調の第2楽章アダージョのメランコリーが心に刺さる。ここでのバレンボイムのピアノから沸き立つ色香は官能とも詩的ともいえる。絶品だ。そして、終楽章アレグロ・アッサイから放たれる無上の喜び。ここには何もなく、またすべてがある。
音楽についての明白な定義は、わたしにはたった一つしかない。フェルッチョ・ブゾーニの「音楽とは鳴り響く大気だ」というものだ。音楽について言われている他のことはすべて、音楽が人々にひき起こすさまざまな反応について語っている。詩的に感じられることもあろうし、官能的であったり、精神的であったり、情緒的であったり、形式が魅力的だったりするかもしれない。可能性は無限だ。音楽はすべてであると同時に何ものでもないので、ナチがしたように濫用することも簡単だ。
~アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P236