フリードリヒ・ヘルダーリンは想う。
若い日々には、朝は心楽しく
夕べとなれば涙にくれた。年を重ねた今は
疑い惑いながら一日を始めるのだが
その終りは、浄らかさに満ち晴れやかだ。
「昔と今」
~川村二郎訳「ヘルダーリン詩集」(岩波文庫)P23
年々無垢に近づく、そういう年の取り方をしたいものだ。
いかにも文学的な、あまりに文学的な晩年のチェリビダッケの奏でる音楽は、年齢を重ねた今だからこそ小難しい講釈がようやく腑に落ちるのだと思う。
今、チェリビダッケは新聞以外のものをめったに読まない。「書き記されたものから遠ざかった」のだと。「年を取るにつれて、ゲーテやヘルダーリンに一層強く魅せられるのを感じます。それは永遠の青春・・・ドイツ的というより人間の本質的なもの。ヘルダーリン—何という詩情! 理性の壁をつき抜ける時には、ちょっとアルテュール・ランボーのようでもあり・・・」。
~クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P319
チェリビダッケはもはや考えることに(考え過ぎることに?)興味を持たないのか。
死後に遺す物の中では何が本当に大切だと思うか、と問う。その答えにまたもや唖然とさせられる。何もない。音楽の何か? いや、何もない。何かマエストロに関するもの、たとえばベルリンでの若き日の勝利とかミュンヘンでの遅い収穫、あるいは神秘主義者としての宣教とか? いや、それなら「島と水車小屋」だと。つまりリパリ島とヌーヴィユ、それこそチェリビダッケ手作りのフィルハーモニー。そう確かに、「通常の物差しで私を計ることはできません」。
~同上書P319-320
常識を疑えと、随分前から彼は言っていたのだと思う。
常人の思念では計ることのできない(文学的?)解釈こそがチェリビダッケの神髄だ。
楽想の隅々まで見通せる(見透かせる?)「ロメオとジュリエット」序曲の巨大な音響(何と28分弱!!)に身も心も飲み込まれてしまう。実演ではさぞかし鳥肌モノのだったのではないかと想像できる代物。磨き上げられた外観がどれほど心地良いか!
惜しむらくは、得意としたと言われる「展覧会の絵」。僕には冒頭プロムナードから終始まるで独活の大木のようにしか聴こえない(少なくとも録音を聴く限りにおいて)。チェリビダッケは禅にすべての答を見出したようだが、確かに宇宙の根源とつながる術としてそれは正しいだろう。しかしながら、真の天命なくして聖なる音楽を創出することは不可能なのである。もちろん本人が納得していなかった録音のせいだということもある。その意味で、残念ながら遺された記録の多くはどうにも恣意性が独り歩きし、禅の奥義とはほど遠いものになっているように僕には思えてならない。