今ここ

Mさんのところで2ヵ月半ぶりに「トリートメント」を受けた。通い始めてかれこれ4年か5年になるが、継続的に「心身のクリーニング」を施すことはとても重要なことである。一昨日は「波動=エネルギー」に話が及び、それがなるほどと思える話だったので書き残すことにする。Mさんはスピリチュアル的にエネルギー・レベルが高い。ステージも半端でない。彼女は自分が大事な決断をするときや何か新しいことが起こるときは必ずといっていいほど「霊夢」を見るらしい。

先日は「碧くきれいに澄んだ湖面に自分の身体がどんどん吸い込まれていき、昇天するかの如くの得も言われぬ心地よさと恍惚感が自分を襲う」という夢を見たらしい。翌朝起きて何の意味があるのだろうと自問しても当然答えは見つかるはずがない。ところが、その日の午後たまたま郵便局で見かけた「かもめーる」葉書。どうやら今年の「かもめーる」葉書らしいが、絵柄はまさにその薄碧い水辺の絵だったということ。とても気に入ったのでその葉書を購入し部屋に置いておくととても良いらしい。そこで、「なるほど、そういうことか」と気づいた。たとえきれいな「波動の良い」葉書であったとしても所詮は「絵」であり、それは「現実」ではない。特に、「気」や「エネルギー」というのは、その場で感じるものであり、「額縁」や「紙の上」に閉じ込められるものではない、ということを再認識したらしい。

その話を聞いてすぐ、僕はチェリビダッケの「音の缶詰」(先日も触れたが)と、その逆のパターンであるグールドの「コンサート放棄」、のことをふと思い出した。グールドは、1964年3月を最後にコンサート・ドロップアウトと称し、一切のライブ活動を辞め、レコード録音のみに専念するスタジオ・アーティストになった(にもかかわらず、今も圧倒的な人気を誇るカナダのピアニストなのだが)。

グールドは極度の潔癖症、大衆嫌いで、自閉症とまでいわれているが、おそらく様々な奇癖をもつ人間であるゆえ、彼なりの理由からコンサート活動を辞めたのだろう。しかし、このあたりの事情に関しては僕自身不勉強で今のところ語る資格はないと思うので、言及は避ける。一切のレコード録音を否定したチェリビダッケと、一方、大衆嫌いから一切のライブ活動を否定したグールド。どちらが正しいかはもはや議論の余地なしだが、いずれにせよ二人とも天才。この際どちらでも良かろう。

ところで、今日はグレン・グールド没後25年の命日のようだ(偶然・・・)。生前のスターを偲び、彼の残した多数の音盤から一枚取り出して聴いてみよう。

J.S.バッハ:フランス組曲第5番ト長調BWV816、第6番ホ長調BWV817
グレン・グールド(ピアノ)

グールドといえばバッハ。これまで様々な場所で書き尽くされてきたことだが、彼のバッハは独特で、そのどれもがこれ以上の解釈はないと思われる不朽の名盤。普段クラシック音楽など聴かない若者でもグールドのバッハだけは別格とし、愛聴する輩が多いと聴く。

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