音楽と数学は、問題にしているさまざまな関係の型が主に言語を用いないものであるという点で、相通ずるものをもっている。言語というものは、あまりにも複雑かつ効率優先であり、しかも人間特有のものであるために、コミュニケーションの手段としても、あるいは体験を理解する手段としても、かなり過大評価される嫌いがある。話したり書いたりする言語が発達しなかったとしても、音楽が心と心を通わせる代替手段となっていただろうというプルーストの推測が、このような思い込みを明らかにしている。
~アンソニー・ストー著/佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳「音楽する精神—人はなぜ音楽を聴くのか?」(白揚社)P294-295
言葉を通して人は思考する。
言葉は思考やコミュニケーションにおいて重要な手段であることには違いないが、一方枠を作り、ミス・コミュニケーションを起す足枷にもなり得ることを僕たちは忘れてはならない。マルセル・プルーストの見解は(彼が音楽好きだったせいもあろう)まったく当を得ているように思う。
音楽と数学を掛けてみる、あるいは、積分という視点で考えてみると、ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽が即座に脳裏に浮かぶ。例えば、「フーガの技法」BWV1080は、彼が死の直前に手掛け、未完に終わってしまった、楽器指定のない、最高傑作の一つだ。これが演奏を目的としたものなのか、はたまた文字通り「技法」を追究した試作なのかそれはわからない。今では様々な楽器で演奏された録音があるが、楽器が何であれ、この峻厳な、そして崇高な音楽が音として聴けることに感謝の思いが絶えない。
グスタフ・レオンハルトが亡くなって早10年が経過する。
巨匠が若い頃に残した「フーガの技法」BWV1080には、囚われのない、無垢な美しさが存在する。
フーガという様式のせいもあるのだと思う、一点集中して耳を澄ますと、魂ごとどこかに持っていかれそうなくらいの収斂があり、ミクロコスモスどころかマクロコスモスまでも包括するすごさがこの作品の内側にあるように感じられる。例えば最長のコントラプンクトゥス11の緊張と、続くコントラプンクトゥス12aの緩和の見事な対比よ(コントラプンクトゥス12と18ではボブ・ファン・アスペレンが加わる)。
バッハの《音楽の捧げもの》と《フーガの技法》は、われわれのものである人間の音楽からはかけ離れた世界、つまり、音楽や、数学や、哲学が一つになるような世界に存在しているものである。
(マルコルム・ボイド)
パルティータロ短調終曲エコーに見るふとした喜びの表情が堪らない。何もすべてが厳粛なわけではないのだ。ただ淡々と遊ぶバッハの日常が垣間見れるようで興味深い(そういえばレオンハルトがバッハに扮して出演した「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」も1967年の撮影だが、中で魅せたレオンハルトの微笑ましい姿が印象的で素晴らしい映画だった)。
また、イタリア協奏曲BWV971も、特に第2楽章アンダンテの憂愁に惹かれる。
レオンハルトの演奏は情感の移ろいを実に自然に表現しているところが見事だ。