朝比奈隆指揮大阪フィル ベートーヴェン 交響曲第7番(1992.11.9Live)

岩野裕一さんの朝比奈隆論は誠実な切り口を誇り、また自然体の朝比奈が投影されていて実に面白い。

そして私は、晩年の朝比奈が生涯をかけて創り出してきた響きに魅せられ、心から感動し、涙してきたわけだが、ひょっとすると私が聴いたのは、実に見事な音楽ではあったけれど、それは決して西洋音楽ではなかったのかもしれない、ということに、いまようやくうっすらと気づきはじめている。
岩野裕一「朝比奈隆 すべては『交響楽』のために」(春秋社)P165

言い得て妙である。ただし、僕の考えはほんの少し違う。朝比奈隆のブルックナーは間違いなく西洋音楽だと思うから。しかし、一方朝比奈のベートーヴェンは西洋音楽を超えたところにある音楽であったに違いない。最晩年に至るまで指揮し続けたベートーヴェンに関しては、一切の妥協を許さなかった朝比奈の「未だ」不完全な形で残されたベートーヴェンであり、それは東西という概念を超えたところにある逸品だった。中でも交響曲第7番。岩野さんはかく語る。

朝比奈の60年以上にもわたるベートーヴェン演奏の歴史の中でも、《7番》はある種の特別な位置を占めているといってよい。というのも、1938(昭和13)年6月、京都帝国大学交響楽団常任指揮者の地位を恩師エマヌエル・メッテルから引き継ぎ、最初の定期演奏会で取り上げたのがこの《第7交響曲》だったからである。
~同上書P93

このときの演奏をメッテルは表立って賞賛することはなかったという、しかし、「短く言えば、朝比奈さん、バンザイ」というメッセージだけを残したというエピソードがすべてを言い表していると思う。

朝比奈の《7番》が格別の安定感と説得力をもって聴き手に迫るのは、そうした楽譜と相対した結果、多くの指揮者が“慣例”として省略してきた第1楽章と第4楽章フィナーレ呈示部の大きな繰り返しや、第3楽章トリオのリピートをすべて行うことで、この作品のシンメトリカルな巨大さを描き出すことに成功したからである。
~同上書P94

録音でも実演でも、ともすると冗長になり、巨大になり過ぎた印象を僕などは当時持ったものだが、今あらためて録音を聴き直し、確かに朝比奈の《7番》が実にバランスの取れた外面を獲得し、それだけでなく大変な思い入れをこの交響曲に反映させた演奏であったことがわかり、面白い。何より朝比奈が愛した第2楽章アレグレットの痛切なドラマに言葉がない。

・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1992.11.9Live)

大阪フィル45周年を記念した欧州楽旅の一コマ、ベルリンは自由ベルリン放送ゼンデザールでのライヴ録音。ためにため、一気に爆発を起こしたような第1楽章序奏ポコ・ソステヌート冒頭から渾身のベートーヴェン。主部ヴィヴァーチェに入ってからも音楽は鳴りに鳴り、重心の低い圧倒的な音楽を響かせる。相変わらず無骨ながら何て愛情に溢れたベートーヴェンだろう。続く(自身の追悼のために奏してくれと常々言っていた)第2楽章アレグレットは、いかにもギアを切り替えた儚い名演奏。そして柔和な響きの第3楽章スケルツォを経て、一つ一つの音符を大事に、堂々と奏される終楽章アレグロ・コン・ブリオの喜びの生命力よ!!

指揮者はまずオーケストラに全力で弾かせることが肝心なのであって、バランスはわれわれがあれこれいじり回すよりも、メンバーのほうがいちばんよく知っているんです。
~同上書P95

自身への謙遜ももちろんのこと、メンバーへの絶対的信頼と、適当な(?)マネジメントが音楽そのものを生かす術だったのだということが御大のこの言葉からも明らかだ。

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