フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ブルックナー 交響曲第8番(1944.10.17Live)

壮絶な、鬼気迫る表現は、戦時中のフルトヴェングラーの常。
環境が彼の心に火をつけ、そういう演奏をさせたことは間違いないことだと思うが、作品の器を云々する以前に音楽そのものの熱を感じ、とらえたとき、このブルックナー演奏は最高の神の賜物だといっても過言ではない。

直後に母の死と息子の誕生という吉凶をほぼ同時に体験することになる指揮者の、当時の心の襞までもが透けて見えるような凄演。心して聴け、鎮座して聴けという天の声が聞こえそうなくらい(戦後のものが温く聴こえるほど)。

たった今、ハイデルベルクの妹からの手紙で、母の亡くなったことを知りました。葬儀ももうすんで、11月9日だったそうです。ぼくはなにも知らずに、12日に、男の子誕生を知らせる電報を母あてに打ったのでした。母の死を知らせたメーリットの電報は、今日になってもまだ着いていません。とにかくずいぶん前から覚悟はしていましたし、最近はとみに弱っておられましたから、母自身にとっては救いであったかも知れませんが、ぼくにとってはかけがえのない喪失なのです。母の死んだことで、ぼくの人生のある部分は完全に閉ざされてしまうのです。あのすばらしく楽しかった少年の日や、その他多くのことどもが。ぼくにとってことに辛いのは、最近めったに手紙を書かなかったことです。
(1944年11月14日付、妻エリーザベト宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P130

心の内を、弱気を妻に直接に語りかけることのできる性格こそがフルトヴェングラーの最大の長所であり、また欠点でもあった。感情の起伏激しく、時に烈しく落ち込み、ときに激昂したという彼の内面は実に寂しくも孤独なものだったように想像される(まるで蠢くフルトヴェングラーの音楽そのものだ)。

ブルックナーの表現についても確かに度を過ぎるような瞬間がある。
しかし、それこそが彼の考えるブルックナーなのだ。

ブルックナーのような型の芸術家はその周囲の環境の世界の内部にあっては、まるで質の違う岩石か、より偉大な前世紀の追憶であるかのような作用を及ぼします。彼らは他の人たちほど同じ周囲の世界や歴史的な条件に縛られていないし、それに依存してもいません。またそういうところから演繹することもできないように思われます。もうそれだけでも彼らが生前たえず、また必然にぶつからざるをえなかったあの無理解というものの壁の説明がつくと思います。それゆえにまた彼らはいっさいのあらゆる人間を何らかその立場々々において旗幟を鮮明にするよう強制します。彼らに対するとき人は、今日の人間として、面と向って、眼と眼を見合って、対決しあうか、あるいはもう頭から黙殺して通りすぎてしまうか、いずれかでしかありません。
(「アントン・ブルックナーについて」1939年)
フルトヴェングラー/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P169

ブルックナーの闘争は周囲との争いというより、自分自身との闘争だったように思われる。そして、フルトヴェングラー自身も生涯常に自分自身と向き合い、闘っていた。激烈な、暗い熱波の如くのブルックナーを創造する源泉は彼のそういう心根にあるのだと僕は思った。

・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版による)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1944.10.17Live)

楽友協会大ホールでのライヴ録音は第1楽章アレグロ・モデラート冒頭から異様な空気に包まれ、恐るべき生命力に富むもの。また、速めのテンポで慌ただしく駆け上がる第2楽章スケルツォ、そして、安寧というよりデモーニッシュな雰囲気に飲まれる第3楽章アダージョの美しさ。それにしても昔は受け入れ難かった(テンポの伸縮激しい)終楽章がこれほど生き生きと僕の心に染み渡るのだから人間の心の器とは不思議なもの。何にせよ発する側の感性より受け手の感性が問われるのだとつくづく思う。

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