
ルネサンスはイタリアではじまった。これはたしかな事実だ。けれども、イタリアの経済がヨーロッパに連結し、ヨーロッパの政治がイタリアに干渉するようになれば、ルネサンスの文化が大陸全体に拡がりをみせるようになるのは、当然の理である。
~樺山紘一著「世界の歴史⑯ルネサンスと地中海」(中央公論社)P295
イタリアから始まったとはいえ、ルネサンスはそのままの模倣で拡がったわけではない。そこには各国独自の方法が刷り込まれ、それぞれに進化、発展していった。しかし、進化とは革新であり、保守と相容れないようになっていくのは当然のことだ。
おりあしく、カトリック教会では、宗教改革への対応からトリエント公会議が続行されている。結論は、教会による統制の強化におちついた。信仰環境の粛清と規制という標語は、ルネサンス文化のふしだらさへの敵対を意味した。あまりに奔放な表現と思考が、信仰をも堕落させ、脱線をしかけたのだと非難がむけられた。ルネサンスの究極の推進者たる教皇が、襟をただすといって路線変更を宣言する。トリエントの精神は、ルネサンスとあいいれない。
~同上書P309
陰陽相対の世界で起こり得るすべてがルネサンスにもあった。本来ならば、相容れない双方が調和に至る道を探らねばならぬはずのものがそうはならない。それこそ人間の知性の、駆け引きの限界なのである。
エル・グレコは、本名をドメニコス・テオトコプロスという。クレタ島はカンディアの生まれである。ギリシア人としてそだった。クレタ植民地の宗主国、ヴェネツィアでの留学にむかうのは、1566年ごろと推定される。うまくいけば画業につきたいと願って。ヴェネツィアは巨匠だらけだった。ティントレット、ついではティツィアーノ。いずれも名を天下にとどろかす大画家のもとで修行する幸運にめぐまれた。
~同上書P320
スペイン・ルネサンス後期に活躍したエル・グレコは抜群の才能を持っていた。しかし、才能だけでは世には出れまい。彼はやはり運が良かったのだ。

だが、ドメニコスは気障のきわみで流行に追随したのではない。本性からして、その絵画手法にしたしみを感じたはずだから。クレタ人は、たぶん幼時からクレタの絵画をしっていたろう。ギリシア正教会公認の祭壇画、つまりイコンである。訓練されたリアリズムとははるかな距離がある。ぎくしゃくした形態、どちらかといえば素朴な人物像。だが、ふしぎと静粛な精神性にとらえられる。ギリシアへの窓口であるヴェネツィアでも、かねてこのイコンの描写法が板絵やモザイクのかたちで、みうけられた。
イコンにルネサンスを接ぎ木した。そういっては身も蓋もないが、ドメニコスが自然とむかった道は、その斬新さを開発する。
~同上書P320-321
当時は、経済的にも軍事的にも、様々な面でスペインは黄金時代だった。特に、フェリペ2世の統治期においては驚くべき発展を遂げ、あらゆる芸術面で秀逸な成果がもたらされた時でもあった。同時期のトマス・ルイス・デ・ビクトリアについて皆川達夫さんは次のように書いている。
ミサやモテトゥスなど教会音楽のジャンルで、すぐれた作品を残したビクトリアの作品は、スペイン人ならではの強い表現意欲と、エル・グレコにも共通する神秘的な訴えとで特徴的です。
~皆川達夫「ルネサンス・バロック名曲名盤100」(音楽之友社)P80
20年ほどローマに滞在し、パレストリーナに師事したというビクトリアの作品は、イタリアという源泉から汲み取られた発想がスペイン独自の文化、否、ビクトリアならではの個性と混淆された新機軸だ。
「アヴェ・マリア」のあまりの美しさ。あるいは、モテトゥス「我は美しき人を見たり」にみる永遠の拡がりよ。そして、思考に偏らず、感情に溺れず、ただひたすらに聖なる音を醸すミサ曲の安寧(この音盤は僕の20歳の誕生日を挟んで録音されていることで不思議な親近感を感じる座右の盤だ)。