
舞台神聖祝典劇「パルジファル」の最初のクライマックス、第2幕後半の、パルジファルのいわば覚醒シーンの夢幻。まるで他人事のように妻コジマに語るリヒャルトの無意識の客観性に膝を打つ。それこそ歌劇でも楽劇でもなく、神聖なる儀式なのである。
ワーグナーは妻コジマにこう語る。「クンドリにかけられた呪いは彼女の目覚めによって力を失い、その目覚めがパルジファルを引き寄せたのかもしれない。まったく謎にみちた関係ばかりだ」(CT:1878.6.22)。この発言「謎にみちた関係ばかりlauter geheimnisvolle Beziehungen」はワーグナーの最後の作品『パルジファル』を読み解くためのキーワードとなる。
(三宅幸夫「謎にみちた関係ばかり」)
~日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」(白水社)P111
ニルソンのクンドリは劇的に過ぎるきらいもあるけれど、ブリリオートのパルジファルとの生き生きとした対話の意味深さは他では聴けぬもの。
パルジファルとクンドリの対話が絡み合い、もつれ合いながらクレッシェンドの螺旋を昇りつめる第2幕の後半は、さながら転生の連鎖と化す。「アムフォルタス!」とひと声叫んだパルジファルは苦悩の聖杯王その人になりきり、「その傷が私のなかで血を流している」のを感じた途端、逆にそれが自分自身の欲動であったことに気づく。アムフォルタスが見た幻視の内側にまで入り込んだパルジファルのまなざしは、救い主の声を聞き、ついに救済者の高みへと転位する。
(池上純一「救済者に救済を」)
~同上書P108
とても現実的なニルソンのクンドリと、夢の中にいるようなブリリオートのパルジファルの二重唱の美しさ(夢か現か)。ちなみに、若きセーゲルスタムの指揮は官能を排し、実に即物的に、客観的に物語を音化したものだ。
一方、楽劇「ワルキューレ」第1幕後半の双子の兄妹ジークムントとジークリンデの愛の目覚めのシーンの抒情に愛の不条理を思う。それにしてもブリリオートの歌う「冬の嵐を追い払い」の温かさ、歓びよ。そして、それに応えるニルソンの「あなたこそは春」の力強さよ。