ゼーダーシュトレーム ヘフゲン クメント タルヴェラ クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管 ベートーヴェン ミサ・ソレムニス(1965.9-10録音)

10代の頃、最初に聴いたオットー・クレンペラーの名盤も残念ながらチンプンカンプンだった。ベートーヴェン畢生の大作「ミサ・ソレムニス」の名盤は数多あれど、真にこの難曲を理解させるに価する、懐の大きい名演奏になかなか出会うことができなかった。もちろんそれは、傑作を享受するための聴き手の力量は作品の偉大さ以上に重要な点ゆえ、僕の感性や理解力の問題もたぶんにあったのだけれど。40余年間、本当にたくさんの音盤を聴き、実演にも触れた。そのおかげでようやくほんの少し理解できるようになったかと思われたのが数年前。

ここには、一線と言えども、あえて言えば、一語といえども、ベートーヴェンが偶然にかきのこしたものはない。ここでは、常に『音楽と言葉は一つである』—しかもそれが、このミサ曲におけるほど一体となっているものは他にない。こんなことは恐らく音楽において唯一の場合であろうし、少なくとも古典音楽においては、絶対にそうだ。
(ロマン・ローラン)

果たして第3のミサ曲の作曲を目論むくらいベートーヴェンにとってミサ・ソレムニスは納得のゆく出来ではなかったらしいが、リヒャルト・ワーグナーが絶賛するこの作品をもってベートーヴェンの最大にして最高の傑作とみなすことは容易だと思う。

かの偉大な《荘厳ミサ》において、われわれはもっとも純正なベートーヴェン的精神をもつ純交響的な作品を見いだすのである。歌声はこの作品ではまったく人間的楽器というような意味でとりあつかわれているが、そういう意味こそ、ショウペンハウエルがきわめて正当にも歌声にたいしてもっぱら認めようとしたものであった。しかも歌声につけられた歌詞は、たまたまこれらの偉大な教会音楽作品においては、概念的意味にしたがって解釈されるものではなく、音楽的芸術作品の意味においてひたすら歌唱団の素材としての役目をはたすものであり、まさにそれゆえに歌詞は、われわれの音楽的に規定された感覚を妨げるような関係は持たないのである。すなわち歌詞はわれわれに理性的表象をおこさせるようなことは決してなく、その教会的性格の制約力も手つだって、ただ周知の象徴的な信仰形式の印象をもってわれわれを感動させるのである。
(リヒャルト・ワーグナー)

言葉が言葉としての機能を失い、歌そのものが器楽の一つとして音楽と同化しているのは、20世紀ロック音楽でいうところのレッド・ツェッペリンの場合と相似形(両者の普遍性も相似だろう)。実にワーグナーの慧眼はまさに未来を見据えていたのだとここからもわかる。ベートーヴェンこそあらゆる天才の原点であり、すべての萌芽をそこに観ることができるのだ。

1822年のベートーヴェンのピアノソナタ32番の第2楽章の変幻自在はどうであろうか。まるでジャズでも聴いているような部分がでて来るではないか。この時代にジャズがあったかどうか分からないが、ベートーヴェンの一番自然な形の独創性がここにある。(メロディーよりも、テーマを際限もなく展開して行くジャズは、シューベルトと違って適切な後継者を得られなかったベートーヴェンの本当の意味の後継者であり、今、時代はシューベルトからベートーヴェンに移ったと言っても過言でない)
名和秀人「大作曲家『霊感』の謎」(鳥影社)P42

ソナタ第32番ハ短調作品111の翌年、ついに「ミサ・ソレムニス」は完成する。

ベートーヴェン:
・ミサ・ソレムニス作品123(1965.9-10録音)
エリーザベト・ゼーダーシュトレーム(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
ヴァルデマール・クメント(テノール)
マルッティ・タルヴェラ(バス)
ヴィルヘルム・ピッツ(合唱指揮)
・合唱幻想曲ハ短調作品80(1967.11録音)
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)
ジョン・オールディス合唱団
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

あえてサンクトゥス(&ベネディクトゥス)とアニュス・デイから傾聴する。崇高なるサンクトゥスの幽玄、あるいはベネディクトゥスの可憐な、癒しの音調よ(甘美なる独奏ヴァイオリンの天国的な響きに心奪われる)。また、アニュス・デイの、自らの懺悔の念を投影するかのような謙虚な響きに、晩年になっても衰えない自己顕示欲を一旦封印しての解釈にクレンペラーの技量を思うのである。

指揮者の技術というのは、私の考えでは、指揮者がオーケストラだけではなく、聴衆にも働きかける暗示力にあると思います。指揮者は、いかにして注意をひきつけておくかを知らなければなりません。彼は、目と両手ないしは指揮棒の動きで、楽員たちをリードすることができなければいけません。この暗示力によって、技術的には並のオーケストラのレベルをかなり引き上げることができます。その反対に、偉大なオーケストラの技術が、凡庸な指揮者によって低下させられることもあります。
ピーター・ヘイワース著/佐藤章訳「クレンペラーとの対話」(白水社)

「暗示力」とはよく言ったものだ。クレンペラーのそれは、他者だけでなく自己すらも容易にかけることのできた能力だったのだろうと思われる。

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