
すでに昨年以来、現在まで私はつねに病気で、この夏はその上、黄疸にもなりました。これは8月末まで続き、シュタウデンハイマーの指示により私はなお9月にバーデンに行かなければならず、同地域では間もなく寒くなりましたし、私は激しい下痢に襲われ療養を続けることができず、再び当地(ヴィーン)へ逃げ帰らざるを得ませんでした。
(1821年11月12日付、フランツ・ブレンターノ宛)
~大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P388
晩年のベートーヴェンの苦悩の度合いが想像できる。心身の健康こそがすべての根本だということを痛感する。当時ミサ・ソレムニスの作曲も遅々として進まず、生きるためにピアノ・ソナタの作曲に励まざるを得なかった様子までもが同じ手紙の中で哀感込めて語られる。
ミサ曲はもっと早くに発送されるところだったのですが、(中略)そういう状態には私は病にあって至らず、あまつさえ、私はそれにも拘わらず、私の生計を考えるとさまざまなパンのための仕事(残念ながら私はこれをそう呼ばざるを得ません)を果たさざるを得ませんでした。
(1821年11月12日付、フランツ・ブレンターノ宛)
~同上書P388
悲壮感伝わる告白にフランツは何を思ったのか?
そう易々とは売れないミサ曲と、とにかく生活のためのお金を稼ぐ目的で書かれた最後の3つのソナタが、同じように孤高の境地にあろう、ほとんど悟りの境地にあろうベートーヴェンの本性から発せられた人類共有の傑作であることは間違いない。それゆえか、一流のピアニストであればそれがどんな演奏であれ、相応の感動を与えてくれるのだ。
ポミエの演奏はオーソドックスな表現ながら堂々としたものだ。
その演奏からは少なくともベートーヴェンへの尊敬の念が十分にこもっていることがわかる。何にせよ愛することがすべてであり、愛しているならばその思いを真っ直ぐに表現することがすべてだ。
ちなみに、作品109第1楽章冒頭から音楽は慈しみに溢れる。すべての楽章が、すべてのフレーズがこれほどまでに淡々としながら光輝満ちる音楽になるのだから素晴らしい。おそらく「パンのため」というのは目先の目的に過ぎない。少なくともベートーヴェンの深層意識には、人類が一つになることへの希求が常になったはず。その思いが形となったのが最後の3つのソナタであり、第九であり、またミサ・ソレムニスだったのだ。