
厳密に形而上学的な思考の中心に永遠なるものを置いたのが、ソクラテスその人であったのか、それともプラトンであったのか、こういうことは私たちの文脈の中ではたいした重要性をもたない。偉大な思想家の中で、ソクラテスだけが自分の思想をあえて書き記そうとしなかったのは、この点も彼のユニークなところであるが、ともかく、ソクラテスの重みを増している。というのは、思想家が永遠なるものにどのように係わるにせよ、自分の思想を書き記すために机に向かう途端、明らかに思想家は、とりもなおさず永遠なるものに係わることを中断し、自分の思想の痕跡をなにがしか残すことに注意を向けるからである。
~ハンナ・アレント/志水速雄訳「人間の条件」(ちくま学芸文庫)P35
結局のところ、真理とは存在するものであり、言語化した時点でまったく別のものに化してしまうことをソクラテスは知っていた。譜面に記された音楽とて同様。今は楽譜忠実主義が世界を跋扈するが、古き良き欧州の伝統を超えた、各々の音楽家の力量と感性に任された真の音楽を聴くには、おそらく昔の録音に頼らねばならないのではないか、エリーザベト・シューマンの歌うシューベルトを聴いて僕は思った。
かつてオットー・クレンペラーとも浮名を馳せた恋多き女エリーザベト・シューマン。
彼女の歌には不思議な色香が漂う。現代では許されることのない不倫なども当時の芸術家(芸人)ともあろうもの、当然の行ない(?)だったとみえる。それでこそ恋の歌、心の機微までもが巧みに表現できるというのだ。何にせよ体験した者に敵う者はない。
確かに彼女の歌うシューベルトは実に魅力的。情感がこもり、色気が滴り落ちるようなうねりがあり、また男をそそる愁いが感じ取れる。古い録音のことなどこの際どうでも良くなる、あまりに人間的な歌の数々に心が動く。
ジェラルド・ムーアの伴奏が素晴らしい。1937年録音の「至福」D433など、前奏のピアノから何という喜びに満ちるのか。大自然の運行に逆らうことなく、シューベルトは自らを媒介にして美しい音楽を生み出した。おそらく一発録りであろう当時の録音は、その意味で本当に生々しい。痩せることのない音からは人間の真実が聴こえるよう。