バルシャイ指揮ケルン放送響 ショスタコーヴィチ 交響曲第15番(1998.6録音)

まず、ベートーヴェンの音楽の中で私の心を打つところのものは、こうである。—
総じて音楽はその選ばれた人々の作品にあっては、一つの思念への集中力を展開させている。それは動き行く建築であって、そのあらゆる部分がいちどきに聴き取られねばならない。—けれどもベートーヴェンの音楽におけるほど、思想のこの統合力が強烈で不断で、またとらえ難い事は、他のどんな音楽家の場合にもないことである。それこそ彼の同時代のあらゆる音楽家たちから彼を区別する本質的な特質だとすれば、それは統一力の異常な断案によるところのものであって、彼のあらゆる作品がそのしるしを帯びているのである。

(「ベートーヴェンへの感謝」1927年3月26日、ヴィーンにおけるベートーヴェン記念祭の講演)
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P149-150

2管編成4楽章制のいわば純交響曲は古典回帰以外の何ものでもなく、彼が創作にあたって意識したのは間違いなくベートーヴェンだったのだと思う。楽聖の志を受け継ぐべくショスタコーヴィチは活動したが、時代も生まれた国も皮肉にもその願望を叶えるのに相応しくなかった。

第1楽章アレグレットにおけるロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲からの引用はつとに有名(これは5回登場する)。ロッシーニはベートーヴェン存命のウィーンで活躍し、大衆から最も人気のあった作曲家だったという事実がミソ。息子マクシムの回想では、父ドミトリーが幼少の頃、最初に好きになった旋律だということだそうだが、あえてこの有名な旋律を引用したのには楽聖ベートーヴェンを超えんとした天才の欲求、願望の顕れではないのかとつい勘繰ってしまう。しかし、おそらく実際は、二枚舌ドミトリーのアイロニカルな方法であり、まさにベートーヴェンが同時代のどんな天才よりも抜きん出た存在であったことを示し、賞賛せんとする、突飛もない独自の方法だったのだと思う。

そしてまた、終楽章に引用されるワーグナーの「ニーベルングの指環」から「運命の動機」についても同様に、聴く者にある種の懐かしさを喚起するのだから堪らない。第5交響曲作曲にあたり、今となっては信憑性が疑われる、弟子シンドラーに「運命はかくの如く扉を叩く」と答えたというベートーヴェン屈指の主題は天意にもとづく厳かで尊いサムシング・グレートの訪問の表象だという見解(?)もあり、同時にワーグナー自身がベートーヴェンの意志を引き継ぐ人間だと信じていたという点を考慮してもショスタコーヴィチの引用の意図はやはり楽聖ベートーヴェンの意志の体現にあるのではないかと思うのだ。

・ショスタコーヴィチ:交響曲第15番イ長調作品141
ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団(1998.6.15-20録音)

バルシャイはショスタコーヴィチの真の意図までは知らなかったかもしれない。しかしながら、少なくともショスタコーヴィチが生み出した音楽のことはよくわかっていたはずゆえ、自ずと、妙に浮き上がるワーグナーの引用は、知ってか知らずか、絶妙な采配というか、僕には天の意思が働いているように思えてならない。特に消え往くコーダの、いかにもショスタコーヴィチらしい退廃的(?)官能に思わず快哉を叫ぶ。小さな、最後の交響曲の名演奏。

音楽は、そもそも闇に閉ざされた情念をつかみとり、概念を超えた普遍的な概念へと高め、多彩なニュアンスの限りを尽くして目も覚めるほど鮮やかに、生き生きと描き出すことによってのみ、われわれに語りかける。そして意識の隅々まで浸透するやいなや、はてしない忘我のきわみへと駆り立てる。こうした音楽を純粋に音楽として判定する唯一の基準は、どうあっても崇高das Erhabeneのカテゴリーでなければならない。
池上純一訳「ベートーヴェン」(1870年)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P135

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