シルヴェストリ指揮フィルハーモニア管 フランク 交響曲ニ短調(1959.1&3録音)

物語を音で描写するのに必要な力は想像力と洞察力、その上で多彩な音を描き出すための色のパレットだろうか。僕の想像では、この人はパレットに実にたくさんの絵の具を持っていたのだろうと思う。時に爆演なるものを放出するも驚くべき凡演を繰り出すことも多々。そのあたりの大きなギャップがまた興味深いのだが、人間たるもの、場外ホームランをぶっ放すときもあれば、三振に倒れることもある、考えて見れば当然のことだ。

僕が実演に触れることができなかった名指揮者。いや、迷指揮者(?)と言った方が正しいのか? 何にせよ不思議な魅力を放つ音楽家の一人である。

意欲がついにある目的に到達したとしても、到達した目的が、二度と消え去ることのない永続的な満足を与えるということはあり得ない。それはしょせん、まるで乞食に投げ与えられる施し物が彼の今日の命をつないで、彼の苦しみを明日に延ばすようなことにもつねに似ていることかと思う。
ショーペンハウアー著/西尾幹二訳「意志と表象としての世界Ⅱ」(中公クラシックス)P65

実に明快かつ正しい論だと思う。ショーペンハウアーは語る。

こうしてみると光に寄せる喜びは、事実上、もっとも汚れのない、もっとも完璧をきわめた直観的な認識方法の、客観的な可能性に寄せる喜びにほかならないのであって、光に寄せるこの喜びの由来をさかのぼれば、あらゆる意欲から解放され脱却した純粋な認識はきわめて喜ばしいもので、それだけですでに、美的な享楽に大いに与っているのだという風に言っていい。
~同上書P74

この世界にのみ意識が傾いている状態のとき、人の欲望はおそらく際限ない。時間と空間を拡張し、意識だけになった自身を想像できれば真の喜びというものがいかなるものであるのか、想像は容易いだろう。しかしながら、闇があるからの光であり、悲しみがあっての喜びなんだと正しく理解できたとき、僕たちは誰しもすでに喜びの中にあることが見えるのだと思う。

聴くということ(聴覚)においては、早くも見ること(視覚)とは事情が異なってくる。音はそれだけで苦痛をひき起こすことがあり得るからだし、また和音とか旋律とかにはおかまいなく、音はそれだけでも感覚的に、快感と感じられることがあり得るからである。
~同上書P74

音楽は世界のすべてを模倣するが、それが人々に感動を与えるかどうかはまさに演奏者の技量(一つには音のパレットの多彩さ)によるのである。
コンスタンティン・シルヴェストリの名録音。

・フランク:交響曲ニ短調作品48
コンスタンティン・シルヴェストリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(1959.1.8&3.5録音)
・サン=サーンス:交響詩「死の舞踏」作品40
ジェラルド・ジャーヴィス(ヴァイオリン)
・デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」
・ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
コンスタンティン・シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(1968.1.5-7録音)
・ラヴェル:スペイン狂詩曲
コンスタンティン・シルヴェストリ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1959.1.26-27録音)

ベートーヴェン同様、フランクの交響曲は暗黒から光明への体現であり。シルヴェストリの解釈は終楽章アレグロ・ノン・トロッポで見事に解放される。金管群の咆哮が爽快だ。
そして何より最晩年のサン=サーンスとデュカスが素晴らしい。「死の舞踏」は文字通り死への讃歌であり、推進力豊かな表現に心が動く。あるいは「魔法使いの弟子」は、映像までもが鮮明に見えるような、実にリアルな音像を描く素敵な演奏だと思う。

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