ミケランジェリ ジュリーニ指揮ウィーン響 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番(1979.1&2Live)ほか

来るか、来ないか?

「本当に悪ふざけだ。彼は繰り返しコンサートの告知をする。だが、チケットが売り出されてからたいていキャンセルする。まるで魚のようだ。時折顔を覗かせるが決してかからない」と書いたのは、アメリカの批評家である。
コード・ガーベン著/蔵原順子訳「ミケランジェリ ある天才との綱渡り」(アルファベータ)P187-188

ベネディッティ・ミケランジェリの音楽は残念ながら録音には入り切らないだろうと思う。
どれほどの賞讃が紙面を飾ろうと、残された録音を聴く限りにおいて、おそらくその素晴らしさの半分もとらえられていないのではないかと思う。僕たちにできるのは、想像力で補填して、彼独自の、神がかりの世界を心に投影することだけだ。実に歯痒いことだけれど。

ベネディッティ・ミケランジェリのお気に入りの指揮者は、エットーレ・グラシス、ヘルマン・シェルヘン、そしてカルロ・マリア・ジュリーニだったらしい。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ(ピアノ)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団(1979.1.29-2.1Live)

ウィーンは楽友協会大ホールでのライヴ録音。
確かにライヴらしい生き生きとした表現が随所に輝くが、魂にまで染み渡る音楽かといわれれば残念ながらそうでもない。ある意味常識的な解釈であるゆえか、一推しのジュリーニの伴奏とはいえ心に響かないのである。辛うじて第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソは、ベートーヴェンの託した音楽の力もあろう、柔和で優雅な音調が世界を包む。

・ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調作品7
アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ(ピアノ)(1971.7.25-8.3録音)

第1楽章アレグロ・モルト・エ・コン・ブリオ。
冒頭から音楽の明朗な歌いっぷりに、一瞬ベートーヴェンの作品だったかどうかを忘れるほど。しかし、これは間違いなく青年ベートーヴェンの希望に溢れる音楽だ。

たとえば、モーツァルトのピアノ協奏曲における意図的に抑えたテンポや、ベートーヴェンの作品7における、作曲家の指示と対立する「ブリオのない」演奏、ラヴェルの《夜のガスパール》の《水の精》の冒頭で、マルタ・アルゲリッチが三重のピアニッシモで空気を振動させるのに成功しているのとは異なり、古典的すぎるほどに正確な演奏など、彼にはありとあらゆる非難をあびせることができるだろう。
~同上書P131-132

「ブリオのない」とは「活気のない」という意味だけれど、作為的でありながら自然体を感じさせるのがミケランジェリの技量だ。たとえ作曲家の指示に従っていなかったとしてもだ。
彼の人生はある意味すべてが夢想の中にあったのかもしれない。
しかもそれは閉じられた夢想だった。そこには人の空想が入る余地はない。無論、他人のことなど微塵も考えなかったに違いない。だからといって彼に慈悲深さがなかったのかといえばそうではない。あまりに無情な、しがらみに左右されない生き方は、彼の演奏にそのまま投影される。

やはり第2楽章ラルゴ,コン・グラン・エスプレッシオーネが荘厳で、圧倒的に美しい。ここには祈りがあるから。

孤独と、自動車での疾走に対する欲求、これこそ音楽界が、ときにはその芸術以上に関心を示した、彼の人間性の二つの側面であった。
~同上書P9

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