オットー・クレンペラーの「タンホイザー」序曲のあまりの素晴らしさ。
デュナーミクがことのほか決まり、実に表情豊かな音楽が紡がれる様子に言葉がない。
また、堂々たる造形から醸される、煌めく音像を目の当たりにし、この序曲を生み出したリヒャルト・ワーグナーの天才を思う。
われわれは問うことをやめよう。彼の偉大さが世間の意を迎えて、世間に順応しようとする—それなのにできない、ということでそれがどのように実証されるかを見よう! 「タンホイザー」に対応し、彼と人々の気晴らしになる喜劇的な小オペラ、サテュロス劇、軽やかで現実に楽しむことができるものをつくろうとする最良の意志、こういったものからできあがったのが「マイスタージンガー」である。ところでいつかはなにかイタリア風な、旋律的で、抒情的に歌うことができ、少人数で容易に上演されうるもの、そういったものがどうしても構想されねばならない。そして彼の手のうちで生ずるのが「トリスタン」である。—人は自分があるよりも小さくなることはできない、違ったものになることもできない。人は自分があるところのものをつくり、そして芸術は真実である—芸術家を超えた真実なのである。
「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ」(1933年4月)
~トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代(第2版)」(みすず書房)P136
ワーグナー擁護者であるマンの論説は少々闇雲な調子も感じられなくないが、ワーグナーへの手放しの賞賛について首肯できる公衆は、確かに当時は少なかったのだと見える。
20世紀半ば以降の録音技術の進歩は実に画期的だった。そして、それらは一般のワーグナー理解を一層深めたのだといえまいか。
丹精込め、そして時間と労力を相応に使い、クレンペラーがEMIに録音した序曲を含めたワーグナー作品はどれもが本当に美しく、素晴らしい(ウォルター・レッグ最良の仕事の一つ)。
「ローエングリン」については第3幕前奏曲の攪拌される活気が見事。あるいは、「マイスタージンガー」前奏曲の喜びに溢れた立ち上がりの風趣に拍手喝采!
そしてこの芸術的純潔は、さまざまな管弦楽で感激を盛り上げようとする意志が国家的なアピールのなかでドイツ性の祝典、賞讃として現われているところ—たとえば「ローエングリン」では王ハインリヒの《ドイツの剣》、「マイスタージンガー」ではハンス・ザックスの実直な口をかりて直接的におこるが—でとりわけ顕著である。ワーグナーの国家主義的なゼスチャーや演説に今日的な意義—今日もっているかも知れない意義—を付加することは、絶対に許されない。そんなことをするのは、彼の芸術を改竄濫用し、その浪漫的な純粋性を汚すというものである。
~同上書P137
おそらくナチスのワーグナー濫用への批判だと思われるが、それにしても彼の作品の芸術的純潔をクレンペラーほど客観的に体現できた人はいなかったのではないかと思われるくらい(彼はユダヤ系ドイツ人だが)。