ムラヴィンスキー レニングラード・フィル チャイコフスキー 交響曲第5番(1956.6録音)

欺瞞に満ちた世の中において僕たちに迷いが生じることは仕方がないこと。
しかし、大袈裟だけれど、最終的に迷いから覚めないことには生まれてきた価値がないというもの。

陰陽二元で成立する気の世界はエネルギーに溢れている。
プラスが生まれれば、それと同じ力のマイナスが相対して現われるのが宇宙の法則。かつて音楽の巨匠たちは「陰から陽に」を主題に、数多の傑作を創造した。その起源の最たるものはベートーヴェンだろうが、楽聖に倣ってチャイコフスキーも後世に残る逸品を世界に投じている。作曲当時、本人の中ではまさに「欺瞞に満ちた」作品として位置づけられていた交響曲は、宇宙形成のフラクタルであったがゆえに結果人気を博し、作曲から百数十年を経ても人類に新しい覚醒をもたらす源泉になっている(と僕は思う)。

名曲ゆえに名演は多い。しかし、個人的には誰が何と言おうとエフゲニー・ムラヴィンスキーの解釈、巨匠による数々の演奏、録音に優るものはない。

真実の意味における人間、すなわち、キリストが、『真理は我々を自由なる者となす』といったような意味において、真の人間になることを望まない、もしくはそうするだけの力を持たないこれらの人間は、ある一国家の人民とか、または社会の一員とかいう状態にとどまっているから、自然、人間のさらに高い使命を見出し確認する人たちに、敵意を抱くようになります。自分自身この最高使命を認めることを望まなかったり、もしくは認めることができない結果、彼らは他の人たちにもそのことを許容しないのです。
トルストイ/原久一郎訳「光あるうち光の中を歩め」(新潮文庫)P129

人類がいかに仮の世界で気に飲まれていることか。心も意志も単なる道具に過ぎないことを僕たちは知らねばならない。その意味で、音楽すら外部装置であり、道具であることを認めねばならないだろう。

・チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調作品64
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1956.6録音)

ウィーンはコンツェルトハウスでのセッション録音。
有名な、ウィーンでの2度目のセッション録音(ステレオ)以上に力が漲る、そして自然体のチャイコフスキーに感動する。録音から70年近くを経ても未だに色褪せない最高にして最良の演奏であると思う。仄暗い第1楽章序奏アンダンテから一貫してムラヴィンスキー節。そして、憧憬の涙に咽ぶ第2楽章アンダンテに僕は言葉を失くす。あるいは、第3楽章アレグロ・モデラートの芯のあるワルツは遊びの精神の顕現であり、ついに終楽章で勝利の凱旋に至る形式に、大自然の法則である恐るべき因果律を思う。

新婚生活の最初の年はエヴゲーニイにとって苦しい一年だった。苦しかった理由は、求婚時代にどうにか一日延ばしにしてきたさまざまの問題が、今、結婚後に何もかも一遍にふりかかってきたからだった。
負債からぬけでるのは不可能なことがわかった。別荘を売って、いちばんうるさい負債は返したものの、相変わらず負債は残っており、しかも金はなかった。

トルストイ/原卓也訳「クロイツェル・ソナタ 悪魔」(新潮文庫)P206

レフ・トルストイは自身の過去を懺悔し、「悪魔」を書いた。
おそらくチャイコフスキーの深層にも、解放されんことを願っての同様の懺悔の心があったのかもしれない。

人気ブログランキング


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む