モントゥー指揮ボストン響 スクリャービン 交響曲「法悦の詩」ほか(1952.12.8録音)

久しぶりにフランツ・リストの交響詩「前奏曲」を聴いた。
ナチス・ドイツのニュース映画で利用された(ある種)苦々しい音楽だが、その輝かしい、雄渾な音調に、若い頃から僕はとても刺激を受けていた。

・・・奇妙な夢を見た・・・夜見知らぬ処に一人でいると、突然目の前に超自然的な光りに照らされた二人の人物が現れた。二人は手を取り合っていて、私について来るようにと合図した。夢の中ではよくあることだが、耐えがたい矛盾によって、私はこの二人に同程度にフランツの姿を認めたのだが、二人とも同じ背丈、同じ顔だちをしていた。しかし一人は天使のような静かな美に輝いていたのに、もう一人は、そのパロディーのようで、ひどいしかめ面をしていて、何か悪魔的な力の虜になっているようだった。二人ともはっきり別のものだと見ていたのだが、二人は一体をなしていて、私に善いことと悪いことをしようとしているのだ、と分かっていた。ついて行くのが怖かったが引きずられるように感じていた。そんな状態でいると言いようもなく不安になった。不安が長く続いたかどうか分からない。悪魔の姿をしたものに抱きしめられてもがいているうちにはっとして目を覚ますと、汗びっしょりで体中が震えていた。
マリー・ダグー著/近藤朱蔵訳「巡礼の年 リストと旅した伯爵夫人の日記」(青山ライフ出版)P328

マリー・ダグー伯爵夫人の正夢、というか、人間の深層にある二面性、それも矛盾するような対の面を見事に言い当てる夢に感動すら覚える。そして、その夢について当のフランツ・リストは次のように答えたというのだ。

ずっと後になって、この謎めいた夢、振り払おうとしてもつきまとってくるこの夢のことをある日フランツに話してみたら、苦い笑みを浮かべてこう言った。「あなたの夢は一つの予感、悲しい現実をあまりにも正確に映し出したものだったのです。調和のとれた姿、恵みをもたらす力は僕です。おそらくあなたが望んだであろう、神がお作りになったままの僕です。調子外れで苦悶している姿もまた僕です。生活が作り上げ、世間とその悪意が望んだままの僕です・・・」
~同上書P328

これは決して逃げ口上ではなく、仮我と真我の存在をいみじくも言い当てたフランツ・リストの本懐であると僕は思う。

ピエール・モントゥー指揮ボストン響による古い録音が素晴らしい。
内なる秘めた官能が、物々しく、しかし外面的な色香を伴なって、赤裸々に、そして荒々しく表現される様子に感激する。

・スクリャービン:交響曲「法悦の詩」作品54
・リスト:交響詩「前奏曲」S97
ロジャー・ヴォイジン(トランペット)
ピエール・モントゥー指揮ボストン交響楽団(1952.12.8録音)

ニューヨークはカーネギーホールでの録音。
一音一音漏らさず、モントゥーの思念がこもる音楽の激しさに思わずのめって聴いた。
(後半のアッチェレランドを伴なう推進力、そして打楽器などの重低音!!)

一方のスクリャービンの、あまりに人間的かつ開放的な官能が引いては押し、押しては引いて寄せる様子に僕は開けっ広げのエロスを思った。何という赤裸々さ。恥ずかしさも何もない、明るい官能に、ピエール・モントゥーの本領発揮を思った。

細かい話に入ることもないので、ここでは、さいきん2年間で彼がすっかり生まれ変わったというか、よくなったといおうか、それだけいっておく。昔の憂鬱症のあとはほとんどのこっていなかった。さまざまな〈思い出〉や不安—これは2年前、訴訟がうまく進んでいないときに、ペテルブルグで彼をさいなむようになった病気の結果なのだが—のあったなか、いま、彼の内に名残をとどめているのは、昔、自分が臆病だったという意識から来る、ある種のひそかな恥じらいだけであった。ただ、あんなことはもう起こらないし、誰にも知られるはずがないという確信のほどが、ある程度だが、昔の気苦労を埋め合わせてくれていた。
ドストエフスキー/千種堅訳「永遠の夫」(新潮文庫)P295-296

確かにスクリャービンの官能にも臆病さから来る「ひそかな恥じらい」が存在しているように思う。しかし、モントゥーの表現にはそれはない。その点で、モントゥーの繰り出すスクリャービンは明るさに過ぎるのかもしれないと思った。


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