
フランス音楽の粋を集めたシャルル・デュトワの傑作アルバム。
楽の音は明瞭かつ快活であり、音楽の隅から隅まで魂が宿る。
長い人生の有為転変のなかで私が気づいたことは、いちばん甘美な楽しみといちばん激しい喜びを味わった時期は、しかし思い出していちばん私が心をひかれ、感動をおぼえる時期ではない、ということだった。そのような熱狂と情熱にあふれた短い時は、たとえどんなに強烈でありえても、それでも、まさにその激しさそれ自体からして、人生という直線上にごくまばらにちらばる点にすぎない。そういう時は、あまりにまれで、あまりに急速に過ぎ去るため、一つの状態を構成することができない。私が心で懐かしむ幸福は、いくつかのはかない瞬間から成り立っているものではなくて、単一の永続的な状態であり、それ自体にはなにも激しいところはないが、それが続くと魅力が増して行って、ついにそこに最高の幸福が見出されるまでになる、といったものなのである。
「第五の散歩」
~ルソー著/佐々木康之訳「孤独な散歩者の夢想」(白水社)P73
ジャン・ジャック・ルソーの思念の確かさがここにある。哲学者の体感した状況証拠こそが世界のすべてなのだと思う。しかし、当時はわかってもそれを解決する方法はなかった。続いて彼は次のように書く。
この地上では、すべてが絶えざる流転のうちにある。そこではなにひとつとして一定不変の固定した形をもち続けるものはない。外的な事物に結びついた私たちの愛着も、そうした事物同様、必然的に移り行き変化する。私たちの愛着はいつも私たちの先に後にあって、もはや存在しない過去を呼び起こすか、そうでなければ、たいていは起こりそうもない未来を先取りする。そこには心を結びつけられるようなしっかりしたものはなにもない。だから、この世で得られるのは、せいぜいすぐに消え去る喜びくらいでしかない。
~同上書P74
すべてが幻想であり、その幻想もまた泡のようだとルソーは悟る。
こういう冷めた、しかし内なる熱狂に支えられた思想の背景にはフランスという国家の当時からの無謀な、人為の最たる、似非の愉快があってのことだろうと思う。
デュトワの「フレンチ・パーティー」にはまるで絵に描いたような偽の狂騒が渦巻いている。しかし、そのことをわかって耳を傾けると、これほど人間的でまた感動的なアルバムはない。見事な選曲だと思う。
エマニュエル・シャブリエのエキゾチックな作品に興奮するも、一層心を揺さぶられるのがカミーユ・サン=サーンスのバッカナール。デュトワの、洗練されながらもオリエンタルな、土俗的な要素を魅せた音響に思わず惹きつけられる。あるいは、クロード・ドビュッシーの編曲によるエリック・サティのジムノペディの憂愁(個人的にはピアノによる原曲の方がよりアンニュイで美しいと感じる)。驚くべきはメンデルスゾーンの有名な「結婚行進曲」が第2曲に引用されるジャック・イベールのディヴェルティスマンの、ほとんどルソーのいう妄想たる空虚な響きを醸す音楽に感激する。第3曲夜想曲の素晴らしさ。