
仮にそれがフィクションであったとしても、尤もらしい理由がつくならそれはまるで真実のように語り継がれるものだ。いかにもサラリーマン時代らしいヨーゼフ・ハイドンの交響曲に「告別」と名の付くものがある。その作品にまつわるエピソードが興味深い(おそらくそれは本当の話なんだと思う)。
1768年、エステルハーザのオペラ劇場の向かい側に、音楽家のための2階建ての宿舎が完成する。70もの部屋を備えていたこの通称「音楽家の館」だが、しばらくは訪問客の宿舎と兼用だったため手狭であった。そのため、楽長のハイドンをのぞく宮廷楽団員たちは、アイゼンシュタットに家族を残して単身で滞在しなければならなかった。特に妻帯者の若い音楽家たちは、やり場のない思いを胸に秘めながら、指折り数えて帰還のときを待ちわびていた。
~池上健一郎著「作曲家◎人と作品 ハイドン」(音楽之友社)P57
雇われる者の悲哀、というか積り積もった鬱憤の捌け口はあったのかどうなのか。ハイドンの音楽の革新が、自身の置かれた立場や状況を上手に鑑みたからこそ生まれたものだということがわかる。状況を打破しようという力の中にこそ革新が生まれるのだとあらためて思う。
1772年のこと、ニコラウス侯はそんな彼らを絶望に陥れる決断を下す。通常は6ヶ月間のエステルハーザ滞在をさらに延長することにしたのである。数週間とも2ヶ月とも伝えられているが、いずれにしても楽団員たちの溜め込んでいた不満が爆発するには十分な長さである。侯爵を何とか翻意させることはできないかと、楽長であるハイドンに泣きついてきた。
~同上書P57
音楽家としてでなく、いわばマネジメントの才覚が求められたケースだが、ハイドンは見事にクリアした(ヘンデルなどもそうだが、商売人としての才能こそが貴族社会で生き残っていける術だったのだろうと想像する)。
ニコラウス侯の気分を害することなく楽団員の思いを伝える術はないものか―ハイドンが考えを巡らせた末にいたったのは、音楽を利用するというアイデアだった。そこで作曲したのが《交響曲第45番「おわかれ」》である。この交響曲は、おそらく11月下旬頃にニコラウス侯の前で演奏されたが、その終楽章に、ハイドンはある仕掛けを盛り込んだ。急速なテンポで激しく突き進む嬰ヘ短調の音楽が、中盤に差し掛かると突如としてゆったりとしたテンポの長調に転じる。嬰ヘ短調という調が当時の交響曲としてはきわめて異例なら終楽章が途中からアダージョに転じるのもまた異例だ。その時点ただならぬ様相を漂わせるのだが、そこからが本番である。
~同上書P58
異例尽くしの交響曲は、当時の人々を驚かせただろうが、何よりニコラウス侯が音楽の含意をすぐさま汲み取ったというのだから、その勘の良さは見事。そういう侯爵だったからこそまたハイドンは長く仕えることができたのだろう。
先日とり上げたクリュイタンスのベートーヴェンの交響曲第7番について、吉田秀和さんが「ちっともおもしろくない」としたその理由は、何だかこのハイドンにこそ当てはまりそうだ。「告別」も「奇蹟」も革新家ハイドンの長所よりもむしろサラリーマン的な、どうにも鬱屈した、箱の中に閉じこめられたような窮屈さというのか、正直「ちっともおもしろくない」のである。
しかし、ヘンデルは別だ。第1曲、近代オーケストラによる壮麗な音楽(アレグロ)は、ヘンデルの音楽の真骨頂であり、第2曲アリアの優美さに心奪われる(クリュイタンスらしからぬ終盤の粘着質音楽がまた感動的)。