具体的な名前を伏せているが、明らかにジャコモ・マイアベーアへの徹底的な攻撃と否定、そして才能を認めるものの、やはり口撃絶えないフェリックス・メンデルスゾーンへの中傷。
しかしユダヤ人にとって、われわれと共に人間になるということは、とりも直さずユダヤ人であることをやめるということを意味している。ベルネはこれを敢行したが、そのベルネの例にしてからが、この人間解放は傍観者的な冷めた態度で楽々と実現できるような呑気なものではなく、われわれの場合にしてもそうであるが、汗と困苦、不安、さまざまな悩みと苦痛の代償としてようやく獲得することができるのだ、ということを教えている。自己否定を通じて生命をよみがえらせるこの解放運動にためらうことなく身を投ずるがよい! そうなれば、われわれは誰彼の別なく一つになれるのだ。されど心得よ、汝等に重くのしかかる呪いから解き放たれる道はただ一つのみ、と! さまよえるユダヤ人(アハスヴェール)の解放とは—亡びゆくことなり!
(池上純一訳「音楽におけるユダヤ性」1850)
~三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P90
目を疑うような結論に言葉を失う。
この論を起点にして、最終的に20世紀最大の悲劇であるホロスコープにつながることを考えると、リヒャルト・ワーグナーの罪は重い(本人に企図はないにせよ結果的に煽動につながったことは・・・)。しかし、その背景、文字には表れない真意など、実際には意思とはかけ離れている可能性もある。文字ですべては表現できないからだ。特に晩年の再生論の見地から考えるにつけ同じ人が論じたとは思えない。根を詰めて追究しようにもワーグナー自身の言葉を得ることができない今となっては隔靴掻痒の感を否めない(単にマイアベーア批判だったものが尾ひれがついてついついエスカレートし、盲目的なユダヤ人批判につながったのか?)。
この種のもっとも恐ろしい例はロシアに見られる。そこでは、ユダヤ人文士と金融ギャングの一隊に大民族の支配権を確実に渡してやるために、三千万の人間が実に狂信的な野蛮さでもって、一部分は非人道的な苦痛を与えられて殺されたり、あるいは餓死させられた。
だが、その結末はただユダヤ人に抑圧されている民族の自由の終末にとどまらず、この民族の寄生動物自身も終りをつげることである。犠牲者が死んだ後には吸血鬼も遅かれ早かれ死ぬのだ。
「民族的ユダヤ人から血にうえたユダヤ人へ」
~アドルフ・ヒトラー/平野一郎・将積茂訳「わが闘争(上)I民族主義的世界観」(角川文庫)P425
リヒャルト・ワーグナーのシンパだったヒトラーが獄中で認めた「わが闘争」は、明らかにワーグナーの論を起点にしているだろう(歴史の一部だけ切り取ると誤解が生じる。望むらくは肉体を超えた、輪廻転生の内の因果律から考える必要があろう)。果たしてヒトラーにここまで書かせた因は一体何なのか?
(どこまでいっても答を探しようはないのだが)
いずれにせよリヒャルトには罪はない(上記のように煽動の罪はあるか?)。そして、ジークフリートやヴィニフレートにも同じくだ。しかし、ヴィニフレートがナチスとバイロイトの懸け橋になったことは間違いのない事実。
彼女は、時代の困難を乗り越えてジークフリート没後も音楽祭を維持し、芸術的に現代に相応しいものとするという、心に堅く誓った「使命」を果たした。いかなる手段を用いたとしても、彼女は英雄でも犯罪者でもなく、天才的な誘惑者ヒトラーの手に落ちた、信じやすく、騙されやすい多くの人間の中の一人だった。若かった彼女が、熱狂的ワグネリアン、ヒトラーに「ドイツの救済者」、「バイロイトの救済者」を見出したことは、ヴァーンフリートの精神に適っていた。
~ブリギッテ・ハーマン著/鶴見真理訳/吉田真監訳「ヒトラーとバイロイト音楽祭―ヴィニフレート・ワーグナーの生涯(下・戦中戦後編)」(アルファベータ)P343-344
アドルフ・ヒトラーはワーグナー芸術を個人的愛好を端緒にして最終的に政治利用した。
そして、ヒトラー亡き後のバイロイトにもその暗い影を落とし続けた。
昔は何処も職業(組合)がこれほどまでに細分化されていたことにまず驚く。
そして、ワーグナーの悠久の(かつ開放的な)音楽が、クナッパーツブッシュの指揮によっていかにも人間らしいドラマに見事に変貌する様子が素晴らしい。
渾身の第3幕。結末に向け、音楽は光輝を放ち、喜びに溢れる。
もしドイツ国民とドイツ帝国が滅亡したら、
外国の支配下となり、
国民のことを理解できる領主はいなくなり、
不可解な思想やくだらない物が
ドイツに持ち込まれるでしょう。
そして勤勉で誠実なものがドイツの親方たちの誉れの中に生き続けなければ、
誰もそれを理解しなくなるでしょう。
ですから、こう言いたいのです。
ドイツの親方たちに敬意を表しなさいと!
そうすれば彼らの能力や誠実さを意のままにできます。
そしてそれらをうまく使うことができたら、
たとえ神聖ローマ帝国が儚く滅びても、
神聖なドイツの技芸は残されるであろう!
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集1―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P369
最後の大団円に向けて音楽がうねる様子、洪水のように迫るワーグナーの思想が聴く者の心に、魂に楔を打ち込まれるよう。なるほど、ここにあるのはナショナリズムの極致だが、背景にあるのは優越感であり、また逆の劣等感であるともいえる。
(音質はこの時代のものとしてはデッドでややこもり気味。ただしバイロイト祝祭劇場の熱気は十分に伝わる)