カルロス・クライバーが「英雄」交響曲を振っていたらこういう演奏になったのだろうか。
推進力抜群であり、同時に決して即物的でない、心のこもった、熱い解釈。ウィーン・フィルとの雄渾な、ベートーヴェンの遺書を乗り越えての希望に満ちる音楽に、僕たちの魂が喜んでいる。
父エーリヒの最高の遺産の一つ。
しかしLPの発明以降、企業がクラシックの大作の完全版を我先にと出したのも自然なことであり、クライバーがアムステルダムとウィーンを訪問中に、ベートーヴェンの第3番、第5番、第6番、第7番、第9番を録音したのもこうした流れからであった。このうちのいくつかは大変有名であり、その長所を私がここで長々と書く必要もないだろう。それ以外のレコードは彼はまったく好きではなかった。
~ジョン・ラッセル著/クラシックジャーナル編集部・北村みちよ・加藤晶訳「エーリヒ・クライバー 信念の指揮者 その生涯」(アルファベータ)P276
エーリヒ・クライバーは自己に厳しい人だったのだろう。彼の人生は常に自分自身との闘争だったように思われる。
クライバーの子どもたちが一緒に散歩に行ける年齢になると、彼らもまた父親の集中力に魅せられて静かに前を歩いた。彼はスコア全部か一部を手にして後ろをついて行き、時々ハミングをし、難しいところは片手で拍子を取り、すぐに近寄れないくらい遠くにいても、その間に起こっていることはすべて把握していた。一度など息子が事故に遭いそうになり、途中で立ち止まって助けたが、まるで何事もなかったかのようにまた勉強を続けたのだった。彼はベルリンのティーアガルテン、オーストリアの湖、ガルミッシュを取り囲む山間部をこよなく愛していたが、他のどこへ行っても時間を無駄にすることなく適応し、自分の習慣を持ち運んだ。
~同上書P182
自己との闘いに愛は必要不可欠だ。それはエーリヒのカルロスへの接し方を見てもわかる。そして、大自然と共にあった人生の、彼自身のあり方に垣間見ることができる。同時にそういう生きかたこそが、彼の生み出す芸術そのものに反映されているのである。
1889年8月、博士夫妻に初めての子エリーザベトが生まれ、1年後には、ケッテンブリュッケンガッセの、シューベルトが亡くなった家のすぐ向かいでエーリヒ・クライバーが生まれた。彼ら一家のアパートは通りからかなり離れた小高い中庭に建っていた。その通りには陰を作ってくれる高い木が一本立ち、当時も今と変わらずに、耳に心地よいほどの行き届いた静けさが漂っていた。二人の子どもたちは楽しい時も苦しい時も、父親が《ばらの木、にわとこの花》(シュレジア地方の踊りの歌)を歌っていたのを鮮明に覚えている。マーラーが悲劇的な瞬間にふと耳にした流行歌から生涯心に残る影響を受けたように、エーリヒ・クライバーには、ウィーンの民族音楽の均衡とペースがまさに骨の髄に染み込んでいたのだ。母親はワーグナー崇拝者の草分けで、彼を身ごもっている間に、プラハ国民劇場でマーラーが指揮する公演を聴いたことがあった。
~同上書P23
幼少期の原体験こそが重要だ。エーリヒの身近には常にジャンルを超えた音楽があったことがわかる。
いずれも「音楽にエネルギーを与え、リズミックに躍動させ、昂揚させる」と、エーリヒの芸術を評価したジョン・カルショーのプロデュースによるもので(メインはおそらくヴィクター・オロフだろうが)、会場は楽友協会大ホール。美しい残響がベートーヴェン渾身の傑作をより瑞々しく、そして生き生きとしたものに仕上げている。提示部の反復も行ない、コーダの金管による主題の咆哮もほどほどに、(彼が愛した)まさに現代的なベートーヴェンの嚆矢といえる表現ではなかろうか。やっぱり前半2つの楽章が上出来だと僕は思う(録音から70年を経てもまったく色褪せない)。