真夏のオリヴィエ・メシアン。
信仰とはすなわち感謝なんだと教えてくれる。
すべての経験に対して、出逢う人・事・物を生かし、感謝できるかどうか。少しでも心の器を大きくすべく德を積むこと。人生はそれがすべてだと思った。
「ヨハネの黙示録」第10章にインスパイアされた「時の終わりのための四重奏曲」。
1941年1月15日、酷寒のゲルリッツの第8A捕虜収容所にて初演。
私は、自らの信仰告白を表明するよう求められております。すなわち、何を信じているか、何を愛しているか、何に希望を置いているかを語るように。
何を信じているか? これは語るに多くを要せず、次の一言でたちまちすべてを語り尽くしてしまいます—神を信じております。神を信じているが故に、同じく聖三位一体を、聖霊を、独り子、すなわち言葉が肉となったイエス・キリストを信じているのです(聖霊については《聖霊降臨祭のミサ曲》を献げ、独り子については私の作品の大部分を献げて参りました—1935年、オルガンのための《主の降誕》に始まり、1944年にはピアノのための《幼子イエスに注ぐ20のまなざし》、さらに《神の現存の3つの小典礼》、《時の終わりのための四重奏曲》、そして1968年に完成した、大混声合唱と7名の独唱者、極めて大規模な管弦楽のための《我らの主イエス・キリストの変容》が、まさにそれに当たります)。
~アルムート・レスラー著/吉田幸弘訳「メシアン―創造のクレド 信仰・希望・愛」(春秋社)P36
メシアンにとって創造行為のすべてが信仰告白だったことがわかる。そして彼は、次のようにも語る。メシアンの言葉の真意を汲み取ることで崇高な、多少抹香臭い作品たちが一層深く理解できるのだから僕たちは彼の発する言葉そのものを信じた方が良い。
さて、私の愛している事柄に話を進めなければなりません—これについては若干長くなります。まず何を差し置いても、私は時を愛しております。あらゆる創造の出発点だからです。時が前提とするのは、変化(すなわち物質)と運動(すなわち空間と生命)であります。時はそれ自体を永遠と対比させることによって、我々に永遠を理解させてくれます。時は、すべての音楽家にとって友であるべきです。
~同上書P37
キリスト者メシアンといえど、相対世界の中にあり、陰陽の浮き沈みにもまれ、永遠ではない有限の時、すなわちこの肉体を、この世を、そしてこの世で出逢う人・事・物すべてを愛しているのだと断言するのだ。果たして永遠は手に入るのか、入らないのか。おそらく彼は、その答を得られぬままこの世を去ることになったのではないか、そして、願わくばすでに新たにこの世に生を得ているのではないか、そんなことを思った。
厳かな名演奏。聖なる儀式はいつどんな瞬間も静かで美しい。
捕虜収容所の中でこそメシアンは信仰を手放さなかった。そして彼の音楽は、数多の捕虜たちの心を救ったのだと思う。音楽はどこまでも拡がり、メシアンの意図通り永遠を記録する。
チョン・ミュンフンのピアノが鍵だろう。
ピアノを土台にしてポール・メイエのクラリネットが慟哭し、ジャン・ワンのチェロがうなり、ギル・シャハムのヴァイオリンが希望を呈す。
わたしは、もうひとりの強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。
彼は、開かれた小さな巻物を手に持っていた。そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろして、
ししがほえるように大声で叫んだ。彼が叫ぶと、七つの雷がおのおのその声を発した。
七つの雷が声を発した時、わたしはそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、「七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな」と言うのを聞いた。
それから、海と地の上に立っているのをわたしが見たあの御使は、天にむけて右手を上げ、
天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造り、世々限りなく生きておられるかたをさして誓った、「もう時がない。
第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。
「ヨハネの黙示録」第10章1-7
天の秘宝が一般に授けられるときは突如として開かれるのだろう。
神の奥義とは、個々の内側に存在する慈愛の発露が真に叶ったときに成就するのだと思う。
メシアンは時が終わる瞬間をずっと待っていたのだろうか。今回の生では残念ながら間に合わなかったようだ。