オリヴィエ・メシアンの「鳥のカタログ」。
大自然の、鳥たちの声を採取し、音楽にするという発想に、そしてその創造力に僕は驚いた。
私は、大方の者には第六感の類があって響き—色彩の関係性を感じ取るものの、それに気付かないか、理解できないだけだと信じている。私と同じ色彩が見えなければならない訳ではまったくない。大切なのは、嗅覚と味覚がそうであるように、この二つの感覚が互いに結びついていることだ。これはまた、ドビュッシーが《前奏曲集》中のある曲の下にこう書き入れた理由でもある—「音と香りは夕暮れの大気に漂う」と。同じ考えだ。
~アルムート・レスラー著/吉田幸弘訳「メシアン―創造のクレド 信仰・希望・愛」(春秋社)P175
人生に全てを受け入れる大らかさが重要だ。
わからない人は確かにある。ただしそれはメシアンが言うように、気づかないか、理解する器に至っていないだけだと知るが良い。
アナトール・ウゴルスキの弾く「鳥のカタログ」。メシアン畢生の大作は、聴く者の集中力を欠くほどの難解さ(?)を示すこともあるが、ウゴルスキの名演奏を前にして、色彩の関係性を意識したときにそのハードルは一気に下がる。
メシアンの作品は膨大に並んだ音楽素材を使用しているが、グレゴリオ聖歌もその一つであり、それを「希少で表現豊かな旋律線の、無尽蔵の鉱脈」と呼んだ。自然—特に鳥の鳴き声—への称賛は、多くの作品中に盛り込まれている。しかし彼は、自然への愛を神への愛に次ぐものとする姿勢を保った。「聖パウロのように、私は自然の中に神性の一側面の現れを見るが、同様に確かなのは、神の創造物に神ご自身は含まれていないということだ」。
~パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P242
キリスト教の、否、宗教の限界を見るようだ。創造主の生み出すものに創造主そのものは明らかに含まれているのだから。
メシアンは世界中の異なる文化から得た複雑なリズム、特にヒンドゥー教のリズムを研究し、作品に組み入れた。ところがこれにより、彼が東洋の宗教に傾いたのではと思い巡らす音楽家が何人かいた。だが誤解に直面すると、メシアンはずばりこう言い切った。「違う、違う! ヒンドゥー教のリズムには大いに敬服するが、あくまでリズムであり、インド哲学に対してではない。リズムを理解するためにインド哲学も研究したが、私は決してヒンドゥー教徒やシバ神信者ではない。仏教について言えば、ただ空の原理、服従の原理があるだけだ」。
~同上書P242-243
陰と陽の二元世界からいかに抜け出すか、輪廻からどうやって卒業するか、生死の解決の糸口を当然ながらメシアンも得ることはできなかったようだ。
メシアンの作品は美しいのだが、時に冗長さ、説教臭さを感じてしまうのは、彼のカトリック一筋という信仰心の影響も大いにあるのだとわかる。
自然と鳥を愛したメシアンの愛と信仰。
30年前のウゴルスキの魔法というのは言い過ぎか。妙な抹香臭さが抜け、あくまで世俗的な音楽として聴こえる技量はとにかく天才的。カタログの一部をかつてエマールの実演を聴いたときも心の底から感動したが、そのときの感動を凌駕する人類の至宝だといえる。
セットにして、ちょうど第4巻から第6巻が収められる2枚目が僕の肝。
30分近くに及ぶ第7番「ヨーロッパヨシキリ」は、まるで自然の中で鳥の声を実際に聴いているような錯覚に襲われるほど。これぞメシアンの色彩感の見事さ、そして、それを再生するウゴルスキの天才。