
私は昨日—あなたは信用なさるでしょうか?—ビゼーの傑作を聞いたが、これで20回目である。私はまたもや穏やかに心を傾けて持ちこたえた、私はまたもや逃げ出しはしなかった。私の焦燥に対するこうした勝利に私は驚いた。そうした作品はいかに人々を完成させてくれることか! 人はおのれ自身がそのさい「傑作」となるのである。—そして実際、カルメンを聞くたびごとに私は、平生思っているよりも私がいっそう哲学者であるような、いっそう優れた哲学者であるような気がした。たいへん気長に、たいへん幸福に、たいへんインド的に、たいへん腰のすわったものになったような気がした・・・5時間坐りつづけていること、これが神聖さへの第一段階である! —私は、ビゼーの管絃楽の音色こそ、私がいまなお持ちこたえるほとんど唯一のものであると言って差しつかえなかろうか? 現今もてはやされているあの別の管絃楽の音色、ヴァーグナーのものは、残忍で、技巧的で、同時に「無邪気」であり、このことで近代的魂の3つの感官に一挙に語りかけるが、—このヴァーグナーの管絃楽の音色は私にとっていかに害になることか! 私はそれを熱風と呼ぶ。不快な汗がからだに吹き出る。私の上天気はもう駄目になってしまうのである。
「ヴァーグナーの場合」(1888年のトリノ所感)
~原佑訳「ニーチェ全集14 偶像の黄昏/反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P288
ニーチェはワーグナーを徹底的に攻撃する。そのための対抗馬として「カルメン」を掲げ、ほめちぎる。果たしてその方法の正否はここでは問わない。ワーグナーは天才だった。ニーチェの場合、ワーグナーへの嫉妬がおそらくあった。もちろんビゼーも天才だ。彼がもう少し長生きできていればもっともっと音楽史に貢献できていただろうに。個人的にはワーグナーと比較はできない。まったく別の創造物だと考えた方がよろしい。
歌手陣の健闘は素晴らしいのだが、カラヤンの音楽の運びにどうにも弛緩が感じられて、あまり良い印象がない。出来は明らかに旧録音の方が良い。
かれこれ35年も前になる。
社会人になったばかりの頃、カラヤンの指揮が、というより、カルメンを歌うアグネス・バルツァに惹かれて大枚叩いて購入した歌劇「カルメン」(あの頃は日本盤で¥9,000もしたのだから隔世の感あり)。久しぶりに耳にして、やっぱりどこか詰めの甘い、今ひとつの印象が拭えない。その上、音質も決して良いとは言えないのだからどうにもこうにも。
ちなみに、カラヤンはレコーディングにおいてセリフのパートは歌手とは別にナレーターを起用するというこだわりをみせているが、それすら余分な取り組みに思え、なくもがな。
何より緊張感が不足し、その意味で集中力にも欠ける演奏ゆえ、やっぱり幾度も繰り返し聴こうと思えないセット。残念ながら。