アバド指揮シカゴ響 チャイコフスキー 交響曲第4番ほか(1988.4録音)

ロシアの芸術作品というのは、得てして鬱積したものの、積もり積もった不安や不満の小爆発や大爆発をきっかけにして成ったもののように思えてならない。酷寒の大地に押し寄せる、壮大でありながら無慈悲な大自然に敵わない矮小な人間の性を映し出す「モノ」こそ傑作として受け入れられたのではないか、そんなことを思った。
ゴーゴリの名作「外套」について、訳者の平井肇は次のように解説する。

小説「外套」はその根本的思想の深刻高遠な点では、ゴーゴリの書いたあらゆる傑作の上に位していると断言することが出来る。ゴーゴリはこの小説の中で何人をも問責することなく、伝道者的に隣人愛を鼓吹し、哀れなる主人公アカーキイ・アカーキエヴィッチ・バシマチキンの面影の中に卑小で無価値な、一個の《霊魂の乞食》の像を描き出して、こうした一顧の値打もない人間でも、人道主義的な愛と、尊敬にすら値することを強調しているのである。
ゴーゴリ作/平井肇訳「外套・鼻」(岩波文庫)P133-134

どんな小さな才能であろうと、むやみにそれを潰してはならない。
もちろん大きな才能ならば、それを駆使して世界に貢献せねばならないだろう。それこそ命をいかに使うか。

《いや、飛んでもないことになったぞ》と、彼は自分で自分に言うのだった。《おれは、ほんとに、まさかこんなことになろうとは思いもよらなかったわい・・・。》それから、やや暫く口を噤んでいてから、こう附け加えた。《いや、成程なあ! 偉いことになって来たぞ! だが本当におれは、こんなことになろうとは、全く思いもかけなかったて。》それからまた長いこと沈黙が続いたが、その後でこう言った。《そんなことになるのかなあ! まさか、こんなことになろうとは、その、夢にも思わなかったて・・・。まさか、どうも・・・こんなことになろうとは!》
~同上書P28

まるで聖愚者のようなバシマチキンの純真なる慈しみ。「観自在菩薩」、神、仏は本来自らの中にあるのだと思う。天才チャイコフスキーの音楽の中にも存在する慈しみと智慧と。時に勇猛に吠え立てる楽想も、通底する慈悲の精神を表現することができれば音楽そのものは一変する。

チャイコフスキー:
・交響曲第4番ヘ短調作品36(1877-78)
・幻想序曲「ロメオとジュリエット」(1869)
クラウディオ・アバド指揮シカゴ交響楽団(1988.4.2-4録音)

アバドの棒が炸裂する、どころか、何もやっていないような自然さに、(特に主題を吹く金管群に余計な音圧のかからない第4番に名演奏の神髄を見たような気がする)。白眉は第2楽章アンダンティーノ・イン・モード・ディ・カンツォーネだろう。愁いの内にする表出すら歓喜こそチャイコフスキーの真骨頂。ゴーゴリの思想にも通じるであろうロシア的楽観の極意が刻印されているように僕には感じられる。続く第3楽章スケルツォの弾けるピツィカートの内に心なしか悲哀を思うのは僕だけだろうか。

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