
パンのための仕事であった最後のソナタ群。
それが理想の、自身の内的欲求から発露された大作であれ、食べるために、お金を稼ぐために生み出された作品であれ、内なる絶対的な意志が通っているなら、万法帰一、すべてを一つに還すという覚悟が心底にあったなら、普く人々に感動を与え、魂を触発するものになることは間違いない。ミサ・ソレムニスを中断して、第九やディアベリ変奏曲の合間を縫って生み出された至高の音楽たちの妙なる魔法に僕は浸る。
ジャン・ジャック・ルソーは「学問芸術論」で、学問、芸術、技術の進歩は人間を堕落させ、不幸にすると書いた。また、「人間不平等起源論」において、人間本来は与えられた自然の環境下で自足的に生きていて、慈しみの感情以外は持たない純粋無垢な存在だったとし、それが人間の進歩(それは逆に言うと退化)によって失われたのだと彼は考えた。
そして「社会契約論」の中で、真の意味での共和制—それはすべての人々が一つになり、大歓喜をもたらす国家、世界を創出する方法を探ったが、ベートーヴェンもまったく同じような思想を若い頃から持っていたそうだ。
ベートーヴェンが心に抱いていた「共和制」が、ルソーのそれと類似している。それに関連するM.ソロモンの記述を記載する。
:“ベートーヴェンもまた暴政は嫌っていたが、自分で、王政の廃止を主張することはもちろん、思い描いてみることもなかった。・・・ベートーヴェンにとってシラーの主人公たちは、啓蒙君主制の代表として、弾圧的な絶対主義と戦う王子たちであり、その目標は征服ではなく和解であった。・・・理想的な啓蒙主義指導者—君主であれ、王であれ、大地執政であれ—に対するベートーヴェンの崇敬の念は、現実には、これらの指導者に対する幻滅が続いて壊されていくのである。”(メイナード・ソロモン『ベートーヴェン』上、75p、77p)
~藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P209-210
人類が兄弟であり、真に一つに還ることをベートーヴェンが心より願っていたのは確かだろう。しかし、思想の表面は類似していてもおそらくルソーのそれとは似て非なるものだったのではないかと僕は思う。意志、すなわち覚悟そのものが違ったのだ。カール・チェルニーの回想では次のようにある。
ベートーヴェンは若いころ宮廷に立派な友人をもっていた。だからもしその気になれば最高の暮らしができていたかもしれない。彼の性格は、ジャン・ジャック・ルソーに酷似していた。しかし彼の堅固な意志は高潔(edel)で、寛容(großherzig)で、純粋(rein)であった。
~同上書P210
やはり楽聖は慈しみと智慧の塊だったようだ。
若い頃、避けていたケンプのベートーヴェン。
ドイツのハノーファーはベートーヴェンザールでの録音。この録音も間もなく還暦を迎える。それは実に母性をくすぐるベートーヴェンだった。高潔で寛容で純粋、まさにチェルニーのいうベートーヴェン像に近い、美しくも人間的な演奏を先入観で勝手に判断してはいかんと思った。
それにしても人間の感覚の変容にも驚かされる。
ケンプの演奏はある程度年齢を重ねない限りその神髄はなかなか見えないのではないかと思った。作品109も作品110も素晴らしい、当然作品111もだ。しかし、特にソナタ第28番イ長調作品101の「意志」に僕は今感動する。
終楽章で第1楽章主題が回想されるシーン(夢見る心持ちへの復帰だとベートーヴェンは言う)に懐かしさを覚え、崇高な精神が見事に反映されるケンプの演奏にあらためて拍手を贈りたい。