ニキシュ指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 交響曲第5番(1913.11.10録音)

ドイツ留学中の1912年、山田耕筰はアルトゥール・ニキシュの指揮の下、ベートーヴェンの「第九」を歌ったという。

ニキシの棒で、合唱団員の一人として、ベルリン・フィルハァモニィ楽堂で唱ったのもこの年だった。
山田耕筰「自伝 若き日の狂詩曲」(中公文庫)P191

山田は、ニキシュの舞台姿について次のように回想している。

舞台から見た指揮者としてのニキシは客席から見た彼とは似てもつかぬほど親しみ深いものでした。殊にその眼の変化は、魔術師の指のように、演奏者の一人一人を神の意志で動かしてしまうのです。実際ニキシの棒のもとで「不可能」は絶無といっていいほど、演奏者を魅了してしまうのです。そして時に、口を突いて迸りでる諧謔は、練習に豊かな和みをもたらすのでした。
山田耕筰「想い出のベルリン・フィルハーモニー」(1957)
「山田耕筰著作全集第2巻」(岩波書店)P631-632

目で音楽を創造したニキシュ。もちろんリハーサルでの口もユーモアに溢れていたのだそうだから、楽員は文字通り楽しく音楽を奏でられたのだろうと想像する。当時の音楽評論家であるエールマンもまた次のようにニキシュを評するのだ。

静かで控え目なニキシュの指揮ぶりは、わざとらしいところがなく、言葉につくせぬほど見事で上品であった。彼があまり控え目なので、ときにはオーケストラが勝手に演奏しているように見えることすらあったが、そんなときにも彼の配慮は隅々にまで、あらゆる十六分音符に対しても行き届いていた。彼のさりげない機敏な指示は誤またず的確だった。
ウェルナー・エールマン/福原信夫訳「ベルリン・フィル物語」(立風書房)P70-71

その指揮姿を見ることが叶わない今となってはこの文章で空想するしかないのだが、静謐な中に神々しさを醸す、朗々たる音楽が奏でられていたのだろうと思うと聴けなかったことに地団太踏む思いだ。

1922年1月23日、ベルリンでの5回目の演奏会は、マックス・フィードラーが「流感にかかったアルトゥール・ニキシュ博士の代理」を務め、マーラーの4番に加えて、ブラームス・アーベントを振る。そこに、南米巡業中にすでに軽い脳卒中を起こしたことのあるニキシュが、まさにその夜、心臓発作で66歳の生涯を閉じたというニュースが飛び込んできた。
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P89

人の運命とはいつ、どうなるのか予想がつかない。
発作も流感の影響だろう。彼がもうあと10年長生きしていれば、少なくともアコースティックではない、電気録音が残されたであろうことを考えると、残念だ。

それでも彼の残したベートーヴェンの第5番は、前述のニキシュの指揮姿の片鱗をのぞかせるものだと僕には思われる。

・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
アルトゥール・ニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1913.11.10録音)

110年前の録音と思えば、その鮮明さに目から鱗。
少なくともニキシュの解釈の全貌が手に取るように見えるのだから、これぞ人類の至宝。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオ。テンポの伸縮、堂々たる造形(主題のフェルマータなど誰よりも長い、しかし、その呼吸は実に自然体)など、静かで控えめとは言い難い音楽の色香がここにある。
第2楽章アンダンテ・コン・モートの推進力、そして緊密なアンサンブルで歌われる第3楽章スケルツォから、ブリッジで終楽章アレグロに移行する瞬間の解放の素晴らしさ(終楽章冒頭は想像以上に抑制されている感じだが、ここに答があるのだと聴く者に駄目押しするような気合いが随所に聴こえてくる)。

1913年11月10日、ニキシュは、ベートーヴェンの交響曲第5番を初めて(ただし指揮者不明のオデオン弦楽オーケストラの録音を除いて)、カットなしでレコーディングした。透明さを心がけたこのレコードは、何度も再発売される。当然ながら音質は劣っているものの、今でも、指揮者の音響に対する想像力やヴァイタリティー、構造を明確にしようとする意図を感じとれるし、流れるような音楽と、ベルリン・フィルの精密さを聴きとることができる。
~同上書P80

過去記事(2016年2月1日)


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