ガラルド ラスキン ヤング リアードン マニング ストラヴィンスキー指揮ロイヤル・フィル 歌劇「放蕩者のなりゆき」(1964.6録音)

親愛なるマドモアゼルへ
あなたの手紙は私にとって大変意義深いものでした。自分が本当に理解される必要がないとしても、「理解」の雰囲気は、人のある傾向を発展させるのにいくらかの役割を果たすものです。まだ表現されていない現象を発見するための、決定的要素となることさえあるのです。

(1951年3月28日付、ストラヴィンスキーからナディア・ブーランジェ宛)
ジェローム・スピケ著/大西穣訳「ナディア・ブーランジェ」(彩流社)P168

何事においても理解は発展の一助になるとストラヴィンスキーは言うのである。
「カメレオン」との異名をとるストラヴィンスキーの作風は時代と共に大きく変化した。ちょうどその頃は、シェーンベルクの十二音技法について大いに思案を巡らせていた。

しかし、この音楽の新しい傾向は彼女(ナディア)にとっては極端に異質なもので、1954年のドメーヌ・ミュジカルの初演の演奏会の一つに出たあと、彼女はストラヴィンスキーに手紙で「いわゆるモダンな作品は破滅を招きましたね。ヴァレーズには暴力的な反応がありました。彼らはなんて時代遅れで、尊大なのでしょう。ウンザリです。潮が流れ、彼らをさらって行きますよ。全くその跡も残さずにね。」
~同上書P168

歴史の潮流は、常にシステムへの抗いによって形成されてきた。
音楽史においてもそう。重要な点は、革新をいかに保守と混ぜ合わせることができるかどうかだろう。

イーゴリ・ストラヴィンスキーの真骨頂。
自作自演で聴く「レイクス・プログレス(放蕩者のなりゆき)」の素晴らしさ。パーセル、ヘンデルらの手法を頼りに、しかも、十二音技法も採り入れたグランド・オペラの粋。

1951年9月11日のフェニーチェ劇場にて彼自らが指揮した、オペラ「放蕩者の遍歴」初演(ナディアは公演前の最終リハーサルにもたびたび臨席していた)によって、イーゴリ・ストラヴィンスキーは再び、11年前に離れたヨーロッパとつながりを作った。多くの人にあらゆる意味で有害と捉えられていた、黒子役のロバート・クラフトの影響を受けて、ストラヴィンスキーは十二音階技法を発見することになる。
~同上書P168

ストラヴィンスキーの天才は、革新にポピュラリティを織り交ぜることのできたところだろう。唯一無二の才能!

・ストラヴィンスキー:歌劇「放蕩者のなりゆき」(1951)
ドン・ガラルド(トゥルーラヴ、バス)
ジュディス・ラスキン(トゥルーラヴの娘アン、ソプラノ)
アレクサンダー・ヤング(トム・レイクウェル、テノール)
ジョン・リアードン(ニック・シャドウ、バリトン)
ジョン・マニング(マザー・グース、メゾソプラノ)
レジーナ・サーファティ(トルコ人ババ、メゾソプラノ)
ケヴィン・ミラー(セレム、テノール)
ピーター・トレイシー(管理人、バス)
コリン・ティルニー(ハープシコード)
サドラー・ウェルズ・オペラ合唱団(ジョン・ベイカー合唱指揮)
イーゴリ・ストラヴィンスキー指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(1964.6録音)

この世界で「側」に翻弄されることの愚かさよ。
僕たちが何のために生まれてきたのかを誰もが知るべきときだ。
ニック・シャドウは文字通り仮の我であり、そこにはメフィストフェレスの如く、損得、好き嫌いに蹂躙される危うさがある。

寓話のあらすじはともかく、レチタティーヴォとアリアや重唱で構成される本格的なオペラを創造したストラヴィンスキーの、新古典主義の完成たる名作。短い第1幕前奏曲から物語の主人公たるトムを揶揄するような実に明朗快活な調子。
外見はグランド・オペラの体裁をとるが、音楽そのものはストラヴィンスキーならではの革新が随所に散りばめられており、聴き応えあり。

ストラヴィンスキーは「自伝」に次のように書く。

創造的な音楽家として、作曲とは、私が遂行すべく定められていると感じている日々の務めである。私は作曲に向いているから、また作曲せずにはいられないから作曲するのだ。あらゆる器官が恒常的な活動状態に維持されていなければ委縮するのと同様に、作曲家の諸能力も努力と訓練によって支えられていなければ、弱まり、また麻痺してしまう。素人は、創造するためには霊感を持つ必要があると想像する。それは間違いである。私は霊感を否定するわけでは毛頭ないし、正反対である。それはいかなる人間的活動にも見出される推進力であり、決して芸術家の専有物ではない。けれどもこの力は、努力によって作動するときにのみ発揮されるのだ。食欲が食べるほどに出てくるように、霊感が最初から現われていなくても、仕事が霊感を招来させるというのも真実である。しかし、重要なのは霊感だけではなく、その結果、言い換えれば、作品である。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝」(未來社)P203-204

実に明快だ。怠け者、放蕩者の末期が碌なものでないことを、彼は嘲笑う。
死んで、生まれ変わって来いと。第3幕ラスト葬送のコーラスのストラヴィンスキー的軽さよ。


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