スクロヴァチェフスキ指揮hr響 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番(2013.9.6Live)

五木寛之の直木賞受賞作「蒼ざめた馬を見よ」。
子どもの頃、父が読んでいた。
書棚を確認すると文庫本が2冊あった。奥付を見ると、昭和49年7月の初版第1刷と2006年12月の新装版第1刷。天空翔ける蒼白い馬が印象的な初版の表紙のことは鮮明に記憶にあった(父はよほどこの小説が好きなんだろうと思った)。

〈いったい、何がはいっているのです?〉と、小生は驚いてたずねました。〈誰も知らない原稿です。長編小説のね〉とM—氏は静かな声で答えました。〈これは、私がこの10年間、心血を注いで密かに書き続けてきた小説です。私は文壇から引退し、全く創作の筆を折ったと思われていますが、それはこの作品を書き上げるための偽装でした。これはロシア人として生きてきた或るユダヤ系市民の、三代にわたる家族の物語です。フィクションではありますが、描かれている細部は総て事実のつみ重ねです。私はここで、歴史の波に翻弄され、その渦に吞みこまれて行った無名のユダヤ系ロシア市民の運命を描きました。ショーロホフやパステルナークは、勇気をもって歴史の暗い真実をも描いています。だが私はまだ、彼らが書かなかったこと、目をそむけて通り過ぎた何かがあるのを感じるのです。そして、それを物語ろうと試みたのです。それが出版されないであろうということを知りながらね〉
ソヴェート体制を批判しているためか、と小生はたずねました。そうではない、と老作家は首を振りました。

五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」(文春文庫)P22-23

老作家の小説は元新聞記者鷹野の手に無事渡り、出版され、全世界でベストセラーになる。
しかし、彼が出会った老作家はミハイロフスキイ本人ではなく、替え玉だった。
いわゆる西側による、ソヴィエト連邦を窮地に立たせるための陰謀だったのである。

いわばこれはメジチ家以前からくり返されている知的な戦争の一例に過ぎません。実えお言うと、私もその道の専門家の一人です。西側の陣営は、ソ連には自由がない、という月並みなスローガンを、この辺でもう一度世界に叩きこんでおこうと企てたのです。最近、ソ連社会が柔軟性をとりもどし、明るい安定期に向いつつあるという見方が強まってきてましたからね。どんなに豊かになっても、共産主義は共産主義だ、何よりもまず、自由がない、と宣言したかったのです。
~同上書P92

現代にも通じる、メディアによる洗脳だが、共産主義が滅び、今や資本主義さえ危ぶまれる中で、何を措いても真実が炙り出される世界にあって、人間の企ての空虚さを思う。
末代まで残るのはシステムを超えた芸術そのものだろう。

かれこれ12年前になる。
僕はたった一度だけ、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキの実演に触れたことがある。
年末の第九だったけれど、相応に感心したものの、長く記憶に残るものではなかったことがその後の機会を遠ざけたように思う。巷間評判になった読響との最後のブルックナーも最高の出来だったようだから先入観を捨て、やはり聴いておくべきだったかと後悔した。

ショスタコーヴィチを聴いた。
かの共産主義国の中で、彼は賞賛を得るも、時にどれほど辛酸をなめ、苦労したことだろう。
当時の体制の恐ろしさは今の僕たちにはまったくピンと来ない。しかしながら、もはやシステムの中でメディアによって洗脳されてきた僕たちが、そこから目覚めるときが真に到来しているようだ。気のせいか、スクロヴァチェフスキのショスタコーヴィチには怒りを超えた無情がある。

90歳とは思えぬ矍鑠とした姿で舞台に立つ指揮者の神々しさ。
音楽は冒頭から集中力抜群でうねり、ドライヴされる。

鬱蒼たる北の世界の表象たる第1楽章モデラートの静けさ。その静寂を破る強烈な打楽器と金管の咆哮を伴う第2楽章スケルツォ(アレグロ)の血沸き肉躍る推進力と爆発力にショスタコーヴィチの天才を思う。抜群のアンサンブルはもちろんだが、hr響の独奏陣の技量も大変なもの。白眉は、後半2楽章。緩やかで悠々たる第3楽章アレグレットに癒され、
第4楽章、愁いを帯びたアンダンテから快活に移行する際の、人智を超えたエネルギー。終演後の長い拍手喝采に快哉を叫ぶ。名曲の名演奏だ。


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