デラ・カーザ ゼーフリート ギューデン ショック シェフラー ベーム指揮ウィーン・フィル R.シュトラウス 歌劇「ナクソス島のアリアドネ」(1954.8.7Live)

いわば理想主義のフーゴー・フォン・ホーフマンスタール。
一方、聴衆に受け容れてもらえなければ無意味だとする現実主義のリヒャルト・シュトラウス。この二人が共同で制作したオペラはいくつかあるが、中で、「ナクソス島のアリアドネ」は紆余曲折を経、初演されるも、当時は決して大衆から前向きに認められた作品ではなかった。

この作品で扱われているのは、単純かつ深刻な人生の問題、すなわち貞節です。失った者にしがみつき、死に至るまで心変わりしないのか―それとも生きて、生き続け、喪失を乗り越えて『変容』を遂げ、魂の調和を犠牲にして、しかも変容の中で自分を保ち、記憶を持たない動物に堕さず、人間であり続けるかです。
(1911年7月14日付、ホーフマンスタールからシュトラウス宛書簡)
田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P206

この手紙を読むと、意外に二人の立場は逆で、ホーフマンスタールこそ超現実的な台本作家だったのかもしれないとも思う。シュトラウスこそ真の夢想家だったのかもしれないと。

ホーフマンスタールのこの生真面目な主題が、シュトラウスには重荷だった。5月になってシュトラウスは、2つの提案をした。一つは「まったくモダンな、完全に現実的な性格の、辛辣なコメディ」か、でなければ「すてきな愛と策略の物語」である。「あるいはあなたはキッチュだと言われるかもしれない。しかし我々音楽屋というものは、美的な面に関してかなり趣味が悪いことで知られているのです」
~同上書P206-207

シュトラウスの言い分はもっともだ。
結局1916年6月19日に完成した改訂版は、二人の個性が軋みを上げ、悲劇と喜劇が綯い交ぜになったものとなったと田代さんは指摘するが、物語は悲劇を喜劇たる日常に潜り込ませることで、実はすべてが歓喜の中にあることを示唆する、文字通り真理を啓示する内容になっていることが興味深い。それこそ二人の見解の反目が生み出した、否、(意識せず)アウフヘーベンされた傑作だという見方も可能なのである。
実際のところ珍しく小編成の室内オーケストラを使ってのプロローグと1幕の歌劇は、実に可憐で、シュトラウスの音楽に内在する官能と理性、そして愛と策略という対となる両面が見事に音化されていて、とても美しい。いかにキッチュだと思われようと、シュトラウスの音楽にある通俗性、柔和でとっつきやすい側面は僕たち聴き手の魂をくすぐるのだ。

この改訂版は同年10月4日、ウィーン宮廷歌劇場でフランツ・シャルクの指揮の下初演された。

・リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ナクソス島のアリアドネ」作品60(1911-16)
リーザ・デラ・カーザ(プリマ・ドンナ/アリアドネ、ソプラノ)
イルムガルト・ゼーフリート(作曲家、ソプラノ)
ヒルデ・ギューデン(ツェルビネッタ、ソプラノ)
ルドルフ・ショック(テノール歌手/バッカス、テノール)
パウル・シェフラー(音楽教師、バリトン)
アルフレート・ノイゲバウアー(家令、語り手)
ゲオルゲス・ミュラー(士官、テノール)
ペーター・クライン(舞踊教師、テノール)
ヴァルター・ベリー(かつら師、バス・バリトン)
フランツ・ビアバッハ(従僕、バス)
アルフレート・ペル(ハルレキン、バリトン)
アウグスト・ヤレシュ(スカラムッチョ、テノール)
オスカー・ツェルヴェンカ(トルファルディン、バス)
マレイ・ディッキー(ブリゲルラ、テノール)
リタ・シュトライヒ(ナイアード、ソプラノ)
ヒルデ・レッセル=マイダン(ドリアード、アルト)
リーザ・オットー(エコー、ソプラノ)
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.8.7Live)

聴かせどころとなるオペラでのツェルビネッタのアリア「偉大なる王女様」は決してわかりやすく、口ずさめるような歌だとは言えないけれど、ここでのギューデンの歌唱は重心の低い、そして長丁場を見事に歌い切る呼吸の深さが見事だ。

ただ、あのシュトゥットガルト公演での管弦楽は、全音楽史を通じて随一のものであった。ストラディヴァリウス、グァルネリウス、アマティ、ベルゴンツィ、グァダニーニ等、弦楽器はオールド・イタリアンの傑作で占められていたのである。シュトラウス自身が指揮棒を振り、あの一体となった弦楽器から引き出された麗しい音色を、私は忘れることができない。
アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P163

エーブルの証言は、このオペラにおける管弦楽パートの素晴らしさを示す。
そして、1954年ザルツブルク音楽祭でのベーム指揮ウィーン・フィルの演奏は、オペラの最後に向け熱く、またうねる。
そういえば、このザルツブルク音楽祭の期間中、吉田秀和さんが訪れ、フルトヴェングラー指揮の「ドン・ジョヴァンニ」「魔弾の射手」、あるいはクナッパーツブッシュ指揮によるブルックナーの第7交響曲を聴かれていたのだった。それならばベームの指揮する「アリアドネ」も聴く機会はあったのだろうと想像したが、ちょうど翌日にバイロイトに向けて発たれていたのだった(バイロイトではフルトヴェングラーの例の「第九」を聴いた後、その年に上演されたワーグナーの楽劇をすべて聴かれたのだという)。
リヒャルト・ワーグナーの楽劇にぶちのめされた吉田さんは次のように書いている。

ヴァーグナーはヨーロッパの生んだ最大の天才の一人である。ヴァーグナーの音楽を除いたヨーロッパの音楽なんて考えられないくらい、ヨーロッパ的なものの一つの根源を、この音楽は体現している。一口でいえば、それはヨーロッパ合理主義の下にある背理世界の表徴である。それにより、ヴァーグナーは単に音楽上の現象たることを超えて、ヨーロッパの一つの事件になった。
「吉田秀和全集8 音楽と旅」(白水社)P270

ワーグナーの後継者たるシュトラウスの数多ある楽劇(あるいは歌劇)は、ホーフマンスタールとの共同作業による一連の作品群に止めを刺す。より人間的で外に開放されるシュトラウスの音楽は、ワーグナーとはまた別の観点で人類の至宝だと思う。

過去記事(2020年6月13日)


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