タール&グロートホイゼン J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲BWV988(ラインベルガー/レーガーによる2台ピアノ編曲版)(2009.4録音)

少したって、陰気に過ごしたその一日と、明日もまた物悲しい一日であろうという予想とに気を滅入らせながら、私は何気なく、お茶に浸してやわらかくなったひと切れのマドレーヌごと、ひと匙の紅茶をすくって口に持っていった。ところが、お菓子のかけらの混じったそのひと口のお茶が口の奥にふれたとたんに、私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとした。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいたのだ。おかげでたちまち私には人生で起こるさまざまな苦難などどうでもよく、その災厄は無害なもので、人生の短さも錯覚だと思われるようになった—ちょうど恋の作用が、なにか貴重な本質で私を満たすのと同じように—。
マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて1」第1篇「スワン家の方へⅠ」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P108-109

一つの行為が、それも無意識の行為が人間の内部に影響を及ぼすという事実。しかも自身のそれを自ら客観的に認知できることの素晴らしさ。
果たして内部の異常とは何だったのか?

そのとき一気に、思い出があらわれた。この味、それは昔コンブレーで日曜の朝(それというのも日曜日には、ミサの時間まで外出しなかったからだ)、レオニ叔母の部屋に行っておはようございますを言うと、叔母が紅茶か菩提樹のお茶に浸してさし出してくれた小さなマドレーヌの味だった。プチット・マドレーヌは、それを眺めるだけで味わってみないうちは、これまで何ひとつ私に思い出させはしなかった。
~同上書P112-113

記憶というものの不思議。
そもそも世界は幻想であり、すべてが夢の中にあるとするなら、記憶そのものも現実だということだ。

初めて聴いたときの印象は、正直、決して良いものとは言えなかった。
おそらくそれは、原典に対する思い入れのあまりの強さが原因で、過度に(?)装飾された音楽に嫌気が差したのだろうと思う。

10余年ぶりに聴いてみて思ったこと。
少なくとも歴史の中に埋もれていた名作を発掘し、世に広めんとしたヨーゼフ・ラインベルガーの慧眼、そして、さらにバロックと浪漫を掛け合わせ、少なくとも20世紀初頭において大衆に受け容れやすく、かつよりダイナミックに、立体的に再構成しようとしたレーガーの果敢な試みに拍手喝采を贈りたい。

途方もない難曲と化したことがわかる。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲WV988(ヨーゼフ・ラインベルガーとマックス・レーガーによる2台のピアノのための編曲版)
ヤアラ・タール&アンドレアス・グロートホイゼン(ピアノ・デュオ)(2009.4.6-8録音)

予想もしない装飾あり、あるいは、ダイナミクスも実に多様。テンポの伸縮も縦横無尽で、バッハが聴いたら快哉を叫んだのではないかと思われるくらい。
先入観を横において、虚心に耳を傾ければこの編曲の真価がわかるというもの。10余年前には気づかなかった、感じなかった「意味・意義」が腑に落ちた。
例えば第5変奏(コン・フオーコ)と第6変奏(第2カノン:アレグロ)はパウゼを置かず、一気に奏するのはデュオの意志なのかどうなのか。

あの頃の僕が聴き取れなかった浪漫の機微、それは実は第26変奏以降に如実だったことに今さら気づく。そもそも10分近くに及ぶ、沈潜する第25変奏アダージョ・エスプレッシーヴォに鍵があろう。ここはラインベルガー/レーガーの真骨頂。個人的には第29変奏(アレグロ)から第30変奏(クオドリベット)の出来(立体的ダイナミクス)が一層素晴らしい。それにしてもアリアにアンダンテ・エスプレーシーヴォ(表情豊かに)とは!

1883年、ヨーゼフ・ラインベルガーはJ.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を2台のピアノのために編曲し、数ヶ所のパートを慎重に付加した。これにより作品はより立体的になり、より大きくかつ堅固なものになった。
そして、20年近く後、作曲家でありまたピアニストであったマックス・レーガーがラインベルガーの編曲を改訂し、独自のダイナミクス、アーティキュレーション、テンポ設定を施した。これらの改訂は、バッハの原典の精神を維持しつつ、作品にさらなる色彩と素晴らしさを付与している。

記憶を喚起した「紅茶」に対し、荒くれを生み出す「紅茶」。同じ(?)紅茶と言えども様相は多様だ。何より水というものは自在であり、何にでも柔軟に変化する。バッハ/ラインベルガー/レーガーの音楽は、もっと陰陽二気の対照を意識した、マン的な精神の体現だろうか。

「あんたのいうのは嘘だ」と彼は上ずった声で叫んだ。「紅茶は冷たい。あんたが持ってきたこの紅茶はまるで氷だ。ぼくはこんなものは絶対飲まん。ごまかす前に自分で飲んでみるがいい。こんな生ぬるい汚れ水のような紅茶があるか。まともな人間が飲める紅茶と思ってるのか。よくまあこんな冷たい紅茶をぼくのところへ持ってこられたものだ。こんなものをぼくが飲むだろうなんて少しでも考えて、こんなぬるま湯のようなものを持ってくるなんて、いったいあんたはどういうつもりなんだ。ぼくは飲まん。断然ご免こうむる」と彼は金切り声をあげると、両手の拳で食卓を叩きはじめたので、食卓の上の食器が鳴ったり踊ったりした。「熱い紅茶がほしいんだ。やけどするほど熱いやつがほしいんだ。それは神様にも人間様にも通してもらえるぼくの権利なんだ。こんなものはご免だ。やけどするほど熱いのがほしいんだ。こんなものは死んでも一口だって—いまいましい片輪者め」と彼はいわば最後の抑制を一気にかなぐり捨て、恥も外聞もない大暴れが存分にできる最後の境地へ恍惚として突入しながら、突然ここを先途というような大声をあげ、エメレンティアに向って拳を振りあげ、文字どおりあぶくだらけの歯をむきだした。
トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(下巻)(新潮文庫)P719

情景を、心理を詳細に描くマンの筆致に舌を巻く。

過去記事(2013年3月9日)


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