日本人にクリスチャンは少ない。しかし、クリスマスは異様に盛り上がる。東京の都心部ではどこもかしこもクリスマス・ケーキを買うのに長蛇の列ができる。世の中の子どもはクリスマス・プレゼントを期待してイブの夜は枕元に就く。まだサンタの存在を信じている幼い子どもを持つお父さんは、彼らが何を欲しがっているのかを事前にリサーチするのが大変らしい。そこには西欧のような宗教的な意味合いは完全になくなり、家族のほのぼのとした光景がみてとれるのだが、それも穿った考え方をすると、国民全員がマスコミや政府によって作られた幻想に踊らされているだけで、これで本当に平和なのだろうか、これで本当にいいのだろうか、などと首を傾げたくなることが多くなった。とはいえ、子どもの夢を潰そうと思っているわけじゃないし、結果それによって商売が繁盛し、国が潤い、皆が幸せな気分になれるなら問題は全くないのだけれど。
僕は宗教家ではない。神を信じないわけではないが、特定の宗教を信仰しているわけでもない。しかし、年の暮れの押し迫った今頃いつもバッハを聴きたくなる。ある年は「マタイ受難曲」、別の年は「ロ短調ミサ曲」、あるいは幾つかのカンタータ群。これまで聖書を精読したり、詳細に研究したりという経験がないので、具体的に物語を語ることはできない。ただ、バッハの生み出す宗教音楽や世俗音楽のほとんどはいわゆる宗教という概念の枠を超え、人間の魂に訴えかけてくるエネルギーを秘めていると僕は常々感じてきた。以前このブログでは、宗教音楽よりは器楽曲に普遍性を聞き取るというようなニュアンスのことを書いたように思う。バッハの宗教曲は四角四面だというような表現だったかもしれない。しかし、今考えると、それは言語が持つ固体のようにかちっとした堅牢さに由来するものであり、言葉を言葉として捉えず、言霊であり、その言葉を歌い上げる「人声」を楽器の一つだと認識すると、ひとたびバッハの宗教曲は宇宙的な拡がりを獲得するのではないか(喩えとして相応しいかどうかは別だが、ロバート・プラントのヴォーカルをヴォーカルとしてではなく楽器として認識するゆえレッド・ツェッペリンのロック音楽としての普遍性、宇宙的拡がりが生まれているような)。
「マタイ受難曲」の陰に隠れ、地味な印象を与える「ヨハネ受難曲」であるが、心の琴線に触れ、キリスト受難の物語が淀みなく感性に訴えかけてくるという意味では「マタイ」以上かもしれない。そして、「マタイ」ほど重くなく聴けるところも良い。ともかく第1曲の合唱「主、われらを統べ治める君よ」から敬虔なる聖書の世界に誘われる。あっという間の2時間余。最後の埋葬における合唱の悲痛な叫び、そしてコラールの穏かで力強く清澄な祈り。ここまで来ると涙なくしては聴けない。それほどに厳しく、圧倒的な音量でリヒターの奏でる楽音がバッハの魂の叫びと同化し、我々に直接に出会わんと訴えかけてくるのだ。
ああ主よ、汝の御使いに命じ
最期に臨みしわが魂を
アブラムのふところに連れ往かしめ、
残れる肉体をその臥戸に
苦しみも痛みもなく、安らかに
憩わせたまえ。しかして終わりの日
来たらば、われを死より呼び覚まし、
この眼もて御顔をば拝せしめたまえ-
喜び溢るる御国にて、おお神の子、
わが救い主、恵みの御座よ!
主イエス・キリスト、わが祈り、わが願いを聞き入れたまえ、
われは汝を永遠に讃えまつらん!
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