フランツ・リストの作品は随分長い間苦手だった。というより、今も決して得意ではない。
何だか似非っぽい、聖人ぶった(?)宗教性も苦手な原因なのかもしれない。
俗人なら俗人らしく(?)、もっとその俗人性を表出していけばもっと面白かっただろうに。
ヴィルヘルム・ケンプのピアノは、ドイツ的な堅牢さと無骨ながらどこか柔和な、優しい味わいがあって僕は好きだ。そう、「2つの伝説」もとても俗っぽい響きと解釈に共感を覚えるのである。
もちろん聖フランチェスコのような無所有に達することはできなかったが、すくなくとも自己中心の小さな圏から外に出なければ、強烈な詩的高揚に達しないことは理解できた。ぼくが詩を失い、枯渇した無感動の中でくよくよと日を送っているとき、気がつくと、きまって自己中心の小さな圏の中にいて、つまらぬ利害のあれこれに支配されているのだった。
そうした欲求を振り払い、自己の小さな圏を越え、高く飛翔してゆくにつれて—聖フランチェスコ的無所有に近づいてゆくにつれて—青空も花々も風も、兄弟のように、ぼくに向ってほほえみ、話しかけてくる。こんな豊かな美しいものに満ちている地上にいて、どうしてそれに気づかなかったのだろう、という強い感動(むろん悔恨もそこにある)が身体を貫いてゆく。
聖フランチェスコは病気や死までを兄弟として愛していた。無所有もそこまで達すれば、地上に恐れるものはないはずだった。
「アッシジの宿から」
~「辻邦生全集17」(新潮社)P227
自己を謙虚に振り返る辻の姿勢に襟を正す。
果たしてフランツ・リストも自己の放埓な人生を振り返るに及び僧籍に入ることを選ぶに至ったのだろうと想像する。
・リスト:2つの「伝説」S.175から「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」
ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)(1974.9録音)
標題に惑わされることなく、純粋に音楽を堪能すれば、飛び切りの美しさに今さらながら気づく。それはもちろんケンプの弾くピアノだからだ。何というヒューマニスティックな音楽であることか。聖人とはいえただの人(?)。清貧を貫いた生フランチェスコのあくまで人間的な側面を描き出すケンプの演奏に僕は膝を打つ。