セルジュ・チェリビダッケのブルックナーは巷間神格化されているが、おそらく録音や映像ではその神髄を体感することは不可能だろうと思う。映像を見るに、遅々として推進力に欠ける(?)その造形感覚が唯一無二の、他では味わえないような凄みを付加するのだろうと辛うじて想像がつくが、しかし、生で味わう機会を逸した僕にしてみれば、集中力が持たない瞬間が多発して、なかなか最後まで聴き通すことができないというトラウマが以前からあった。
僕にとって特別な作品であるブルックナーの交響曲第7番ホ長調。朝比奈御大の解釈を、特に1975年ヨーロッパ楽旅における聖フローリアン教会マルモアザールでの一世一代の名演奏をいまだに最高のものだと信ずる僕にあって、同じようなスケールに見える(?)チェリビダッケの演奏は、やっぱり受け入れ難い代物だったけれど、このたびベルリン・フィルとのシャウシュピールハウスでのライヴ映像を観て、ほんの少しだが、チェリビダッケの言わんとすることがわかったような気がした(気がしただけだが)。
ベルリン・フィルの機能性、あるいは個々のメンバーの胸のすくような完璧な技術をもってして、映像からもその凄味が如実に伝わってくる。何よりあのテンポは、すべての楽器を同レベルのエネルギーで鳴らすための秘策であり、例えば、第2楽章アダージョにおいて、内声がくっきりと明示され、見える様に、そこで発露される官能は、ブルックナーの本懐であり、おそらくチェリビダッケが目指した禅でいうところの中庸というものの体現なのだろうと僕は思った。ほとんどガンジス河か黄河の如くの、滔々と流れる大河の水飛沫を想像される音の動きに、音楽に、独活の大木呼ばわりしていた自分が恥ずかしくなったくらいだ。
・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調WAB107(ノヴァーク版)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.3.31 &4.1Live)
全曲に1時間半近くを要する恐るべき演奏。この異様なテンポでも乱れることのないベルリン・フィルの金管群の技量にまずは驚かされる。その上、呼吸の深さと類稀な音楽への集中力の凄まじさ。どの瞬間もともかく静けさに溢れるところが素晴らしい。
ちなみに、個人的には、第2楽章アダージョは、やはりクライマックスの打楽器の炸裂はなくもがな。あれはやっぱり御大のようにハース版でこそ音楽に秘めたる厳かさが生きるというもの。
※2020年10月24日の投稿記事