ヴィーナー トーマス ワトソン ホッター クッシェ カイルベルト指揮バイエルン国立歌劇場管 ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(1963.11.23Live) 

マンのワーグナー論は、実に的を射ていて面白い。

ワーグナー芸術と情熱的に取組むことは、つねに同時に、ワーグナー芸術によって批判的・装飾的に賞讃されるこのドイツ性そのものに情熱的に没頭することである。ワーグナー芸術自体がドイツ性そのものであるかも知れないが、それは、一つの批評によって導かれるときに初めて、ますますもってドイツ性そのものとなる。その批評は、ワーグナー芸術を対象とするようにみえながらも、その実、『善悪の彼岸』の第8章冒頭の『マイスタージンガー』前奏曲のかのすばらしい分析におけるほど、必ずしも直接的に明言されてはいないが、ドイツ性一般を扱っているのである。実際、ニーチェはワーグナー批評家としては外国に好敵手をもつが、ドイツ性の批評家としては、国の内外を問わず彼に匹敵する者はいない。
「非政治的人間の考察(抄)」(1918)
トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代(第2版)」(みすず書房)P32

「ドイツ性」とはいかなるものか?
芸術そのものに縁という形で批評が介入することによってその性質が一層強化されるということをマンは指摘するが、その最適例がニーチェのワーグナー論だというのである。
確かに「善悪の彼岸」第8章冒頭は秀逸だ。

私は、またしても、はじめてのように—リヒアルト・ヴァーグナーの「マイスタージンガー」の序曲を聴いた。これこそは華麗な、内容を盛りすぎた、重苦しい、末期的な芸術作品であって、これを理解するには今なお生命をたもっているここ二世紀間の音楽を前提しなければならないところに、この作品の誇りがある。—こうした誇りが間違ったものではないというところに、ドイツ人の栄誉がある! ここには何というさまざまの精分と力が、何というさまざまの季節と風土が、混和していることであろう! それが時にはわれわれには古代風に思われ、時には異国風に思われ、渋味があるようにも若すぎるようにも思われる。それはまた気ままなところもあれば、けばけばしく因襲的なところもある。なかなかいたずらっぽいところもあるにはあるが、それにもましてなお武骨で、がさつなところもある。—それには激情も勇気もあるが、また同時に晩く熟れた果実のたるんだ黄色な皮もある。それは洋々満々と流れてゆく、かと思うと突然に不可解なためらいの瞬間があり、これはまるで原因と結果のあいだに突如ひらけた亀裂、われわれを夢でうならせる重圧、いわば悪夢のようなものである。—が、そうかとおもうとすぐまた先の快い流れが、このうえなく複雑な愉楽の流れ、古くして新しい幸福の流れが、洋々とひろがってゆく。まさにこの幸福のなかには芸術家が自己自身にいだく幸福がこめられており、彼はこれを隠そうとはしない。
第8章「民族と祖国」
信太正三訳「ニーチェ全集11 善悪の彼岸・道徳の系譜」(ちくま学芸文庫)P261

手放しの絶賛でもなければ、またあえて手厳しい批判でもないところがニーチェの本懐。
良くも悪くもドイツ的なるものをニーチェは分解し、再構築、それを「マイスタージンガー」前奏曲に投影して見るのである。

「マイスタージンガー」については、年齢を重ねるにつれその意義や奥深さがようやく理解できるようになった。かつて知人がドレスデンを訪問したとき、ゼンパーオーパーで「マイスタージンガー」を鑑賞し、そのあまりの長さに時差の関係もあってつい居眠りしてしまい、十分に味わえず、楽しめなかったと漏らしていたことを思い出した。ワーグナーの楽劇などは知悉していないのなら事前に少なくともあらすじは押さえておくべきなのだが、彼はそれをすっかり怠っていて、そういう事態に陥ってしまったことを帰国後悔やんでいた。

久しぶりにカイルベルトによる「マイスタージンガー」を聴いたが、この春還暦を迎え、あらためて聴いたそれは、これまでと印象が随分違っていた。第1幕前奏曲から渋いながら輝かしいばかりの音響に包まれ、その後の音楽も幕を経るにつれ一層生命力豊かな響きを発し、終幕最後のシーンまで僕は思わず一気に聴いてしまった。

・ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
オットー・ヴィーナー(ザックス、バリトン)
ハンス・ホッター(ポーグナー、バス・バリトン)
デイヴィッド・ソー(フォーゲルゲザング、テノール)
カール・ホッペ(ナハティガル、バス)
ベンノ・クッシェ(ベックメッサー、バリトン)
ヨーゼフ・メッテルニヒ(コートナー、バリトン)
ヴァルター・カルヌート(ツォルン、テノール)
フランツ・クラールヴァイン(アイスリンガー、テノール)
カール・オステルターク(モーザー、テノール)
アドルフ・ケイル(オルテル、バス)
ゲオルク・ヴィーター(シュヴァルツ、バス)
マックス・プロープスト(フォルツ、バス)
ジェス・トーマス(ヴァルター、テノール)
フリードリヒ・レンツ(ダーヴィト、テノール)
クレア・ワトソン(エーファ、ソプラノ)
リリアン・ベニングセン(マグダレーネ、アルト)
ハンス・ブルーノ・エルンスト(夜警、バス)
バイエルン国立歌劇場合唱団
ヴォルフガング・バウムガルト(合唱指揮)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団(1963.11.23Live)

いかにも現実的なストーリーが、そして喜劇が、ワーグナーの本性を見事に表している。カイルベルトの棒はどこまでも真摯で、そして瑞々しく、熱気に満ちている。
以前、僕はこの楽劇の第2幕を押して記事を書いた。あれから8年ほどの歳月が流れるが、今では全曲、すなわちどの幕も重要であり、一つ一つの幕を丁寧に、聴き込むことでこの作品の真価が手に取るようにわかるのだということを書いておきたいと思う。

ちなみに、カイルベルトは愛するワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の公演中に心臓発作を起こし、急逝した。享年60。あまりにも早い死だった。

最後の2回の《ローエングリン》を振ったヨーゼフ・カイルベルトは、もの静かで信頼できる、本物の「歌手のための指揮者」で、どの歌手からも、特に女性歌手からはとても人気があった。彼の指揮で歌うのはいつもとても楽しかったが、残念ながら彼はあまりに若くして亡くなった。ミュンヘンにおける《トリスタン》公演で、前奏曲の最中に。
ビルギット・ニルソン/市原和子訳「ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯」(春秋社)P276-278

心臓発作を起こしたのは、第2幕途中という話だったり、あるいは第3幕イゾルデの愛の死の直前だという話だったり、報告が錯綜しているので事実は不明だが、何にせよ生涯現役で指揮を全うしたという意味でカイルベルトは幸せだったのではないだろうか。

過去記事(2016年8月6日)


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