ポリーニ&アバド指揮ベルリン・フィルのシェーンベルク協奏曲(1988.9録音)を聴いて思ふ

ヨハネス・ブラームスの微かな木霊、あるいは、リヒャルト・ワーグナーの誇大妄想的思考の片鱗。様々なイディオムが分解され、再構築、同時に独自の方法に則って創造された豊かな音楽は、世界でたった一つのもの。

これだけ徹底して旋律性を追究した例は、これまでのシェーンベルクの十二音作品にはなかったものである。
石田一志著「シェーンベルクの旅路」(春秋社)P446

実に心地良い。
ピアノと管弦楽が寄り添うように、調和する様。極めて緻密に設計された12音技法を駆使しての、単一楽章の祈り。信仰心篤いアーノルト・シェーンベルクの、最晩年のピアノ協奏曲は、冷徹・頭脳明晰でありながら人間らしい温かみを醸す完全無欠の音楽だ。

穏やかで静かな空気が一変し、時に激昂する様子の第1部アンダンテ。ポリーニのピアノは明瞭で思慮深い。また、わずか2分半の第2部モルト・アレグロのピアノの打鍵に漂う恐怖感。続く、第3部アダージョ冒頭、管弦楽の深みのある慟哭の調べに感応するピアノの可憐さ。(ショスタコーヴィチに通ずる)何とニュアンス豊かな音楽性!第4部ジョコーソ(モデラート)は、後半の回想シーンが心に響く(先達からの影響、故郷への郷愁、独自の手法の完成、などなど、人生を回顧してのシェーンベルクの様々な思いがひとつに収斂されて行くようだ)。コーダ(ストレッタ)の加速の盛り上がりと、突如落ちる終結の儚さよ。

・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54(1989.9録音)
・シェーンベルク:ピアノ協奏曲作品42(1988.9録音)
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

新ウィーン楽派を振らせると、さすがにアバドの棒は美しい。
同時にポリーニのピアノも血が通った、有機的な音を出すようになるのだから興味深い。

実際に人間たちは、生きることの重荷を感じており、それには理由がないわけではない(もっともその重荷の原因は人間自身にあるのだが)。この重荷が生まれた理由としては、次のような事情があるようだ。自然ななりゆきとして、人類の進歩において、才能、熟練、趣味、そしてその結果として奢侈は、道徳の発達よりも早く発展する。この〈ずれ〉は、人間の身体には快適なものであるが、道徳にとってはきわめて大きな重荷となり、危険な状態をもたらす。欲望を満たす手段よりも、欲望の力がはるかに大きいからだ。こうして人間の道徳的な素質は、ホラティウスが「よろめき歩きの罰」と述べたように、欲望のあとを、よろめきながら追うのである。欲望はせっかちに進むために、足がもつれて躓くので、道徳はやがて欲望に追いつくだろう(これは賢明な世界の支配者の配剤として期待してよいことだ)。
「万物の終焉」(1794)
カント/中山元訳「永遠平和のために/啓蒙とは何か」(光文社古典新訳文庫)P121-122

欲望に糊塗された進化など糞喰らえと言わんばかりに、シェーンベルクは形骸化した美を否定するように新たな方法を見つけ出し、独自の自然美を生み出したのだと僕は思う。まるで欲望を追い越した道徳のようだ。

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