
「真実の愛」についての夫婦の口論。
物語は支離滅裂だと言われるが、主題はさほど難しいものではない。
困苦によって夫婦の絆が切れるのか、切れないのか。
すべての関係が因果律の中にあり、その清算が生まれ出ずる目的だとするなら、清算が終わってない以上、現世で絆が切れるように見えても必ずや来世で再会することになるのだということを考えると、妖精の王オベロンが妻タイテーニアとめでたく仲直りするというエンディングは当然のことだ。
音楽も実に美しい。
ロンドンのコヴェントガーデンの委嘱で書かれたウェーバー最後のオペラ。
初演からわずか2ヶ月でウェーバーはロンドンにて結核のため客死。
有名な序曲は推進力抜群で、当然素晴らしい。
第2幕、ニルソン扮するレーツィアの長尺のレチタティーヴォとアリアが堂に入る。
自然は時に牙をむくが、本来は穏やかで和やかなものだと言えまいか。
海は人々を幸せにする。しかし、一方で人々をいとも容易く飲み込んでしまう。
だけど見て!光が差し込んでくるように私には思えるの
ゆっくりと遥か遠いところから
まるで二度目の朝の目覚めのよう
蒼ざめた弱々しいその眠りから
~オペラ対訳プロジェクト
第3幕のレーツィアのカヴァティーナも実に美しい。
嘆きなさい お前 哀れな心よ 死んでしまった喜びを!
悲しい涙を流すのです 逃げ去った希望のために
悲しみが今私に授けられた唯一の宝物
香りの上の妖精ペリたちのように 私はため息を糧として生きる 人にはその泉は苦いかも知れません
でも私にはゲルムの水のように甘いのです
お前たち 喜びの陽気な光を浴びている者よ
お前たち 希望という黄金の流れを船で行く者よ
雲がお前たちの上に来るかも知れぬ 波が甲板を洗い
暗黒と難破の未来を描き出すやも!
でも 私の心の砂漠の日照りはもう起こってしまっている
枯れてしまった木はもう二度目の不幸を恐れたりはしないわ
~オペラ対訳プロジェクト
筋を単純に追うのではなく、視点を変え、視座を上げて読み解くと、「オベロン」も決して難解な物語でないことがわかる。
50余年前の録音ながら今も瑞々しく光輝を放つクーベリックの名演奏。
そこにはニルソンがいて、若きドミンゴがいて、またプライがいるのだ。
カール・マーリア・フォン・ウェーバーの「歌手の個性というものは、一つ一つの役に思わず知らず彩りをそえるものだ」という言葉は至言である。軽快で変通自在の喉の持ち主と、堂々とした声音の持ち主とでは、同一の役柄を歌っても表現はまったく違ったものになる。一方が他方よりも活気において各段に優れていることは確かだろうが、両者が作曲家の示した情熱の階調を正しく把握し再現したのであれば、いずれ劣らぬ満足を彼に与えることができる。
「パスティッチョ」(1834)
~三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P26-27
若干21歳のワーグナーは、別の論文でウェーバーの歌の扱いの稚拙さをとり上げるが、ジングシュピールとしての「オベロン」などは台本の出来は横に置くとして、音楽的には、もちろん歌という点でも素晴らしいものだと僕などは思う。
それこそその時代を担う一流の歌手が出揃えば最高のエンターテインメントになるのではかろうか。