ヨッフム指揮ベルリン・フィル ブルックナー 交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)(1964.12録音)

久しぶりにじっくり聴いた。
僕が初めて購入したこの曲の音盤は、オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルによる名盤だった。
謹厳実直なるドイツ的解釈に、僕は襟を正して向き合って傾聴したあの頃が懐かしい。
世は未だLPレコード時代で、アナログ盤に丁寧に針を下ろし、耳を澄ませたあの神々しい感覚はアントン・ブルックナーの醍醐味であるといえる。

しかし、思わぬところでテンポが加速され、揺れるところは(今も)どうもしっくりこない。
宇野さんに洗脳されたわけではないのだけれど、ブルックナーにまつわる刷り込みは健在といえる。宇宙の声たる第9番があまりに人間的に、現世的に聴こえるのだからそれはそれで面白いはずなのに。相変わらず力強い音楽に心奪われるのに、どこかでそういう天邪鬼的な思考が働くのだから僕の先入観というのもひどいものだ。

・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1964.12.1-5録音)

ベルリンはイエス・キリスト教会での録音。
神に捧げた未完の交響曲の、人智を超えた素晴らしさ。そんな構成の中にあってヨッフムの解釈は先にも書いたように人間感情のすべてを表現し尽くすかのように人間的だ(第2楽章スケルツォのこの上ない推進力)。

天才の苦悩と苦悩の価値。—芸術の天才はよろこびを贈ろうと欲するが、彼がきわめて高い段階にいると、味わってくれる人がなくなりやすい。彼は御馳走をだすのだが、人はそれを欲しがらないのである。こうしたことが彼に対してことによると笑いや哀れをそそる悲愴さを与える、なぜなら結局彼には人々を満足するように強いる権利がないからである。彼の笛は鳴りひびく、しかしだれも踊ろうとしない。これは悲劇的なことかもしれない? おそらくそうだろう。—しまいに彼はこういう欠乏の代償として、その他の人々があらゆる別種の活動にさいして得るよりも多量の満足を創作にさいして味わう。人は彼の苦悩を課題に感じる、彼の歎きの声がひときわ高く、彼の口がひときわ雄弁だからである。そして時とすると彼の苦悩は実際きわめて大きい、しかしそれも彼の功名心・嫉妬心が非常に大きいがためにすぎない。
池尾健一訳「ニーチェ全集5 人間的、あまりに人間的I」(ちくま学芸文庫)P189

まるでブルックナーを評するような言説だが、果たしてブルックナーの本心はどうだったのか?
弟子たちの忠言を聞き入れ、改訂作業に勤しんだように見えるけれど、結局のところ作曲活動に大いなる満足感を得ていたのではなかったか。

終楽章の完成が成立していたら、おそるべき音楽が現われていたことだろう。
あの、途方もないアダージョこそが神への感謝の思いととらえ、これをもってブルックナーの辞世の言葉とするのにロマンはあるが、それでもやはり森厳たる音楽を聴いてみたかったのは確かだ(補筆完成版ではない、ブルックナーの真筆が欲しかった)。

過去記事(2015年6月20日)


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