オーケストラはコロナ禍シフト。
生き生きとした造形と、情感こもる音楽に、グスタフ・マーラーの幸福を思う。
(素敵な音楽だ)
アラン・ギルバートの指揮は作曲家の真意を丁寧に推し量るもので、実にオーソドックスで、ストレートだ。
亡くなる3ヶ月前のマーラーのゲオルク・ゲーラー宛書簡。
ちょうどお書きになったものを拝受いたしまして、私の《第四》についての貴重なご議論を嬉しく拝読したところです。これほどまでに理解していただけることをどれほど喜んでいるか、すぐさまお返事したいと存じました。この作品のあなたのご理解は私には新しいもので、なみなみならず啓発されるところがありました。本当に今まで私にはとんと思いつかなかったことをあなたはおっしゃってくださった、と言わざるを得ません。コロンブスの卵のような気が私にはしてまいります。ただひとつ残念に思いましたことですが、作品の理念にとってことのほか重要な主題的関連についてあなたは見過ごされていたのでしょうか? それとも聴衆にたいしては技術的説明は省いた方がよいとお考えになったのでしょうか? いずれにいたしましてもまさにこの点を拙作には探し当てていただきますようお願いいたします。前三楽章はいずれも主題的に、最終楽章と最も密接かつ意味深く連関をなしているのです。
(1911年2月8日付、ニューヨークからゲオルク・ゲーラー宛)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P423-424
賞讃というよりむしろ後段の厳しい(?)文面は果たしてマーラーの本意なのか、その点についてゲーラーは次のように断りを入れているようだ。
この点についてゲオルク・ゲーラーはこう述べる—私はマーラーに、《第四交響曲》の私が指揮したライプチヒ初演の、私の解説のついたプログラムを送って、忌憚の無い批判を請うたのである。なぜなら私はこの作品について彼と喋ったこともなければこの曲の演奏を聴いたこともなかったからである。
~同上書P424
なるほど、ゲーラーはあえて厳しい批判を作曲家に求めていたのであった。
ただし、ゲーラーの書いた文章が不明ゆえ細かく推測することは不可能だけれど、少なくとも最初の3つの楽章と終楽章の動機的乖離を指摘したことは間違いないように思われる。その点は、マーラーの返事こそ真実なのだろう。
当時、マーラーの音楽はいわゆる現代音楽だった。
一般大衆に真正面から受け入れられるものではなかったのだろう。
マーラーは、時代が自分に追いつくのを待った。
そして死後半世紀場を経、ようやくマーラーの時代が到来したのである。
今や古典たるマーラーの交響曲の美しさ。中でも、交響曲第4番ト長調の大らかさ、同時に透明感のある美しさ。
この音楽は思念をできるだけ削ぎ落し、無心の境地で奏でるべきだ。
終楽章のソプラノも人の声を想像させないように、癖のない声が理想だが、その点アンナ・プロハスカの歌は完璧だ(無観客の座席側に立ち、彼女は歌う。つまり、指揮者の背後で「天上の生活」を歌うのだ。
・マーラー:交響曲第4番ト長調(1900)
アンナ・プロハスカ(ソプラノ)
アラン・ギルバート指揮NDRエルプ・フィルハーモニー管弦楽団(2020.12.18Live)
どんなにこの世の喧噪があろうとも
天上では少しも聞こえないのだ!
すべては最上の柔和な安息の中にいる。
なるほど、管弦楽とソプラノの文字通り「対話」に感動する。
(第3楽章アダージョのクライマックスでソプラノが上手から徐に登場し、客席に降りて行く)