第25章
愛は真の生命の唯一の完全な活動である。
友人のために生命を賭すような愛のほかに愛は存在しない。愛は、それが自己犠牲である時にのみ愛なのである。人が他人に自分の時間や自分の力を捧げるだけでなく、愛する対象のために自分の肉体を酷使し、自分の生命を捧げさえする時、はじめて、われわれはそれを愛と認め、そのような愛のうちにのみ幸福を、愛の報酬を見いだす。そして、人々のうちにそういう愛があるということ、そのことによってのみ世界は成り立っている。
~トルストイ/原卓也訳「人生論」(新潮文庫)P137
自己犠牲という解釈が今や古びているように僕は思う。
その行為が他人から見たら自己犠牲に見えても、本人の中でそうでなければ、そもそも自己犠牲という概念はない。吉凶禍福どんなときにも「大歓喜」を味わえる境地こそ真の慈しみであり、換言するならそれが真の愛だということだ。
チャイコフスキーの人としての生きざまは自己犠牲的ではなかったが、彼の生み出した作品には慈愛が通底する(普遍的な音楽作品にはすべてそういうものがある)。
第1楽章アンダンテ・ソステヌート冒頭、金管群の咆哮からして強烈。
あるいは、コーダのスフォルツァンドなど多少恣意的な印象もなきにしもあらずだが、実に力強い。ロシア的憂愁を前面に押し出さず、あくまで純ドイツ風の解釈を根っこに、明るい印象を醸すフリッチャイのチャイコフスキー。
やはり50年代初頭のフリッチャイの棒は、すべてを一刀両断するような鋭さに満ちる。
同時期の巨匠たちの演奏と比較してもまったく遜色ない、どころか、推進力という点では随一かも。
フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル チャイコフスキー 交響曲第4番ヘ短調作品36ほか(1951.1録音) ザンデルリンク&ムラヴィンスキーのチャイコフスキー交響曲集(1956)を聴いて思ふ第2楽章アンダンティーノ・イン・モド・ディ・カンツォーネの人間味溢れる歌。
ここには自然ではなく、人間に触発された、舞踊的な愉悦がある。第3楽章スケルツォも血が通う。
テンポを自在に操る終楽章アレグロ・コン・フォーコがまた勇壮で素晴らしい(猪突猛進の、しかしある程度の抑制を効かせたコーダが素敵)。
僕はこの交響曲が長い間苦手だった。なくても良いとさえ思っていた。
しかし、年齢を重ねたせいか、風光明媚なヴェネツィアの地で完成された音楽の内側にある苦悩の精神をフリッチャイの演奏の中に垣間見たとき、腑に落ちた。ある日、突然に、だ。
バレエ音楽「白鳥の湖」は稀代の名作だ。
白血病発症前のフリッチャイの棒は、どこか色香に富む。
それは生命力といっていいのかどうなのか、少々煩く感じられるのは僕だけか。バレエ音楽やオペラからの円舞曲など、個人的には「我(が)」が前に押し出され過ぎているように思う。