ヴィントガッセン ニルソン ブーレーズ指揮NHK響 ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1967.4.10Live)

あいつの耳と来たら軍楽隊の吹奏楽しかわからなかったが、私のようにもっとワグナーを聴くべきだった。あいつはもう一つで美をつかみそこねたが、それというのも、この地上で美を築き上げるには必要不可欠のこと、つあり、自分の考える美の根拠を知るという努力をしなかったからです。いつかあなたは言われましたね。自分自身を嵐と感じることができるかどうか、って。それは何故自分が嵐なのかを知ることです。何故自分がかくも憤り、何故かくも暗く、なぜかくも風雨を内に包んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。それだけでは十分でない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に小麦畑を豊饒にし、ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で神のように蘇らせ、すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味わわせようとするのかを。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」(1968)

三島はアドルフ・ヒトラーにそう語らせたが、それは自分自身のことでもあった。ただし、この過激さは当時の誰にも受け入れられなかった。まさにリヒャルト・ワーグナーが革命の煽動者として欧州を席巻しようとしたあの時代と同じく、そして、20世紀前半に、いとも容易く権力者に成り上がったナチス総統を羨むかのように、自身の内面を吐露しようとしたのである。

小さな電車のおもちゃを操りながら畳の上を這う僕が写った1枚のモノクロームの写真が手元にある。おそらく1967年の初夏ではなかったか。僕には確かにその瞬間の記憶が今でも鮮明にある(写真が先なのか記憶が先なのかはっきりしないのだけれど)。

世界が、戦後の混沌からようやく抜け、様々な過激な主張が跋扈し出したこの時代のことは、残念ながらそれ以上の記憶はない。しかし、60年代後半のことも、また70年代初頭のことも、切り取られた形で所々明確に僕の頭の中に今も存在する。

この年(1967年)の4月、関西地方は連日雨が降り続いたという。
そんな中、大阪では、バイロイト音楽祭の初の引っ越し公演が鳴り物入りで開催され(第10回大阪国際フェスティバル)、連日盛況を博したそうだ。ピエール・ブーレーズ指揮NHK交響楽団によるこのときの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が、今年、ついに陽の目を見るというニュースを見たとき、僕は思わず興奮した。20余年前、NHK教育テレビで放映された「20世紀の名演奏」の中で、抜粋ながらヴィントガッセンとニルソンの二重唱「愛の夜よ、帳を降ろせ」を観たとき、震えるほど心を動かされた、あの公演の全貌が、音のみとはいえ甦るのである。

ようやく耳にし、そしてまた、繰り返し聴き込み、ここに聴後の感想をあくまで簡単に書き記そうと思う。各幕終演後の聴衆の反応から確かに素晴らしい公演であったことは間違いない(大卒初任給が2万6千円の時代にあって何とSS席チケット代は3万円だったというのだから、観客はよほどのワグネリアンか、あるいは裕福なブルジョア階級か)。
しかし、僕の耳には、そんな風には響かなかった。もちろん録音のせいもあろう、同時に、音のみというハンデもある。オーケストラは随分健闘しているのだが、どうにも音楽が軽いのである。うねりに欠け、情感が薄いとさえいえる(そういう印象が僕にはある)。

1967年大阪国際フェスティバル
・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(トリスタン、テノール)
ビルギット・ニルソン(イゾルデ、ソプラノ)
ハンス・ホッター(マルケ王、バス・バリトン)
フランス・アンダーソン(クルヴェナール、バス)
ヘルタ・テッパー(ブランゲーネ、アルト)
セバスティアン・ファイアジンガー(メロート、テノール)
ゲオルク・パスクーダ(若い船乗り、牧童、テノール)
ゲルト・ニーンシュテット(舵手、バス)
大阪国際フェスティバル合唱団
ピエール・ブーレーズ指揮NHK交響楽団(1967.4.10Live)
演出、衣装、装置:ヴィーラント・ワーグナー

とはいえ、幕が進むごとに、音楽はこなれ、熱を帯びた演奏に変貌していく点はさすがだ。しかし、どうにも官能が薄い。そういえば、ブーレーズの指揮法について遠山一行さんが次のように語っておられた。

ブーレーズの指揮については、わかりやすくて面白いと言われていますね。わかりやすい点については賛成ですね。あんなにわかりやすい音楽のつくり方はないと思うし、しかもきれいですよね。ところが面白いかどうかについては、僕の場合ちょっと別の話になってくるんです。僕は、彼が日本に来たときにインタヴューしたことがあるんですけど、その時彼は、ワーグナーの音楽は結局劇伴だと言ったんですね。だから指揮をしていても全然くたびれないんだと。今でもきっと彼は同じことを言うと思いますね。そういうふうにやっていれば、よくわかるし芝居の邪魔もしないというわけです。たしかにその意味でシェローとのコンビもすごく上手くいくわけですが、そうなると僕は多少シラケちゃうんですよ。やはりあの音楽には、もっと劇を浸蝕する力というか、竜のごとくに劇を飲み込んでしまう力があると思うし、そういう音楽の姿が僕にとっては大変感動的なんですよ。ですからブーレーズ流にやっていれば、そんなことをせずにきれいな音楽のままでいれるんだなとは思うんだけれど、あまりに完璧できれいなまま、意味が完結してしまったという気がするんですよ。意味作用が小さくなってしまった気がする。
「ユリイカ」1983年8月号 特集「ワーグナーと現代 没後100年」(青土社)P89-90

思わず僕は膝を打った。三島由紀夫がヒトラーに語らせたように、ワーグナーには、破壊と創造が見事に拮抗する、音楽そのものの意味作用が大いにあるものの、おそらくブーレーズの「トリスタン」には、その点がスポイルされているのだ。

明朗快活な「トリスタンとイゾルデ」に感激しながらも、どこか手放しで賞讃できない僕がいる。それでも、かつてNHK教育テレビで部分を観た、あのヴィントガッセンとニルソンによる二重唱のところはやっぱり感動的だ。特に第2幕は、この公演の白眉だと思う。

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