コチェルガ リポヴシェク レイミー ラーリン レイフェルカス ラングリッジ アバド指揮ベルリン・フィル ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(1993.11録音)

本来ならば決して公開されることはないであろう私的な日記。
1983年のアンドレイ・タルコフスキー。この年、クラウディオ・アバドはタルコフスキーに歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」の演出を依頼する。

31日にミラノに飛んで、クラウディオ・アバドと会わなくてはならない。ベルリンから電話があった。『ホフマニアーナ』を映画化したいという人がいる。私は現金で5万ドルを要求した。少なすぎたろうか。モスクワでは、私がカンヌで敗北を喫したという噂が流れている。ひどいにもほどがある。
(5月26日、ローマ)
アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良・佐々木洋子訳「タルコフスキー日記」(キネマ旬報社)P530

どうと言うことのない心の叫びだが、果たして彼は心底何を思うのか。

今日ミラノから戻った。疲労困憊。アバド、ジョン・トゥーリー卿(ロイヤル・オペラ・ハウスの総監督)、それにドヴィグプスキーとも会った。『ボリス・ゴドゥノフ』に関して2,3、いいアイデアが出た。しかし疲れた。へとへとだ。住む家もない。仕事を始めなければならない。なんらかの決断をしなければならない。何か手を打たなければならないが、何もしていない。何かを待ち受けているのだが、何を待っているのかわからない。
(6月2日、ローマ)
~同上書P532

タルコフスキーが、かなりのストレスの中にあったことが明白だ。まもなく癌を発症するが、この時点では何事もないかのように仕事に追われる彼が、もう少し心のゆとりを持てていたら、次なる「聖アントニウス」は完成していたのかどうなのか。少し、彼の心の内を追ってみたい。

ドストエフスキーの計画について尋ねられたが、私は、その計画はまだ定かではありませんと答えただけで、何ひとつはっきりしたことが言えなかった。なぜか? 要するに大使が忙しすぎて時間がなかったのだ。何日か前にソ連領事館でトニーノ・グエッラの奥さんのローラ・ヤーブロチキナが、『ゴドゥノフ』を演出する気なのかとそれとなく訊いてきた。あれもこれもと実に奇妙だ・・・
(6月12日、サン・グレゴリオ)
アンドレイ・タルコフスキー著/武村知子訳「タルコフスキー日記II」(キネマ旬報社)P90

周囲に起こる自身への様々な打診こそが、彼の心の静けさを邪魔したのかどうなのか、困惑する様子にもはや胸が痛い。

昨日ロンドンから戻った。ドヴィグプスキーと一緒に『ゴドゥノフ』の舞台スケッチを作ったのだが、いやはや何とも嘆かわしいことだった。上演協力者にうかつにも彼を招いてしまったのは! 彼はボロボロでどうやら病気だ。終始何かの役を演じている感じ—外国人の役を。私が彼と一緒に仕事をしようと決めた理由を説明して、つまりロシア人だからだと言ったとき、こう答えたほどだ—「へえ、僕のどこがロシア人だって言うんだい?」。何としても外国人でありたいのだ。ああ! 何と愚かな奴! 何ひとつ考えていない、何ひとつ理念というものがない! 彼が(あんなに散々話し合って議論したあとで)こしらえた装置模型を見て、私は目を疑った。何もかも変更し、作り直し、事実上初めからやり直さなければならなかった。これを〈災難〉と言わずして何ぞや。おそろしく疲れた。
(7月18日、サン・グレゴリオ)
~同上書P97

タルコフスキーは確かに亡命したが、しかし、祖国への愛情は決して失わなかった。
それゆえに外国人を演じたがる、否、祖国を真に捨てたドヴィグプスキーを受容し難かった。この辺りの事由にも、彼の作品をより深く理解する緒がありそうだ。
この年、タルコフスキー演出の「ボリス・ゴドゥノフ」は成功裡に終わった。

ロンドンでの『ゴドゥノフ』上演を終えて今日ラーラと戻ってきた。この間ずっと日記に手も触れなかった—ひとつには、よその家で書く気になれなかったから。またひとつには、ロンドン滞在はかりそめのものとの感じがしたから。
(1983年11月20日、サン・グレゴリオ)
~同上書P121

しかし、タルコフスキー自身の心中は決して穏やかではない。

イギリスの批評界は『ボリス・ゴドゥノフ』を今年度の最優秀演出賞に推した。
(11月23日、サン・グレゴリオ)
~同上書P130

続いて、1984年のアンドレイ・タルコフスキー。

ストックホルムでは『ノスタルジア』はまだ公開されていない、配給者が今もって適当な封切館を見つけていないためだ。フランスでも『ノスタルジア』は今日まで公開されていない。ゴーモン社とRAIの間に金銭上の折り合いがついていないからだ。たぶん、ロンドンで『ボリス・ゴドゥノフ』のリハーサルをやる時に少しは金がもらえるのではないかと思う。
(10月6日、ストックホルム)
~同上書P173-174

当時のソヴィエトの芸術家は金銭的には決して豊かではなかった。かのエフゲニー・ムラヴィンスキーですらそうだった。アバドの依頼を受けたのも、実際お金のためだったのだろうと思う。

明日はロンドンへ飛ぶ。俳優の選定のため、それから『ボリス・ゴドゥノフ』の演出のため。もっとも、ジョン・トゥーリー卿と報酬の折り合いがつけばの話だが。彼は一千ポンドを申し出ている、つまり2千3百ドル、ということは4百万リラ。もう少し上げてもらいたい、これでは少なすぎる気がする。
(10月12日、ストックホルム)
~同上書P175

2千4百ドルとは、当時の価値にして60万円ほどだ。「気がする」どころか、確かに少な過ぎる。
天才芸術家の悲哀をまたここでも垣間見る。

そして、1985年のアンドレイ・タルコフスキー。

スウェーデン映画協会主事オロフソンに相談し、これ以上短くはできない旨を説明し、この件で〈芸術評議〉を行ってくれるよう頼んだ。ベルイマンにこの映画(「サクリファイス」)を見てもらうよう、手配も頼んだ。
さっきも触れたオペラ批評家のベネデット・ベネデッティが、コヴェント・ガーデンから『ゴドゥノフ』を買い取りたがっている—衣裳、装置、それに監督助手スティーヴン込みで—そうしてイタリアで上演したいらしい。

(11月10日、ストックホルム)
~同上書P218

いよいよ病を発症し、衰弱していく中で彼は最後の力を振り絞り、生きる。

ひどい気分。スラーワ・ロストロポーヴィチが来た。何としても手を貸してやる、レーガンに手紙を渡してやると言ってくれた。2月にはフィレンツェへ行って市長に会ってくれる。(単なる知り合いではなくどうやらずいぶん親しいようだ。)私たちの家の問題を話し合ってくれるそうだ。私のレントゲン写真が回された教授の名前と部署を訊き出してくれるよう頼んだ。彼はたいそう心配してくれている。私と『ボリス・ゴドゥノフ』を映画化したがっている。私は、あの演出をどうやったら映画に置き換えられるものかわからないから、と言った。
この映画化は—スラーワによれば—トスカン・デュ・プランティエが言い出したことだそうだ。デュ・プランティエは財政危機の〈ゴーモン〉を買収する気でいるのだ。だがどこそこ勘違いがあるようだ。舞台版『ボリス』が成功を収めたのだから映画にすればもっと成功するだろうと誰もが考えているようだが、それはむろん間違いだ。舞台と映画は違う。だいたいどうやったらオペラが映画になるものか見当もつかない。

(12月6日、ストックホルム)
~同上書P225

世間は「お金」のことばかりだ。確かに映画化すれば、そしてそれがまたヒットすればまたお金を生む(現代のオンライン後日視聴のひな形のようなものか)。

私は何なのだろう? 結核? 肺炎? 癌? 13日にははっきりするだろうが。
そうだろう、『ゴドゥノフ』を全く違ったかたちで映画にしてみたら! それしかない。リハーサル・シーン、音楽家スラーワ・ロストロポーヴィチの風采、ボリスの風采、舞台装置、観客と演出家の姿、それにプーシキンとムソルグスキーを結び合わせて。つまり、個の人格に基礎を置いて、ひとつの構築物を打ち立てるわけだ。

(12月11日、ストックホルム)
~同上書P228

そして、タルコフスキーは、病苦の中、幻覚なのかどうなのか、「ボリス・ゴドゥノフ」の映画化をついに認めるのだ(現実には叶わなかったと思うが)。

そうして、1986年のアンドレイ・タルコフスキー。

ニュース。カンヌにボンダルチュクも『ボリス・ゴドゥノフ』を出品するそうだ。私もコンペに参加することを知っているはずだが、全く不安を抱いておらず、どうやら絶対に賞を獲る目算があるらしいとのこと。
今日、明け方、声を聴いた。「アンドレイ!」と呼ぶ声。
私:「はい?」そして目が覚めてみると、傍らには誰もいなかった。ラーラが体温計を買った。夕方4時には39度あった。30分後には39度5分だった。

(4月22日)
~同上書P291

微熱が続く中、彼は声を聴く。しかし、果たしてそれは幻聴だったのかどうなのか。たとえそれが夢の中の出来事であったとしても、事実には違いない。淡く見る、そして、そこに隠された思念を細部まで慮り、作品を楽しむ、それこそがタルコフスキー作品への対峙の術なのである。

アバドがタルコフスキー演出版をついに(?)封印して成したベルリン・フィルとの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」も端正でまた美しい。

・ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」
アナトリー・コチェルガ(ボリス・ゴドゥノフ、バス)
リリアーナ・ニチテアヌー(ボリスの息子フョードル、メゾソプラノ)
ヴァレンティーナ・ヴァレンテ(ボリスの娘クセーニャ、ソプラノ)
ユーゲニア・ゴロチョフスカヤ(クセーニャの乳母、メゾソプラノ)
フィリップ・ラングリッジ(シュイスキー公、テノール)
アルバート・シャギドゥリン(シチェルカロフ、バリトン)
サミュエル・レイミー(老僧ピーメン、バス)
セルゲイ・ラーリン(グリゴリー、テノール)
マルヤナ・リポヴシェク(マリーナ・ムニシェック、メゾソプラノ)
セルゲイ・レイフェルカス(ジュスイット僧ランゴーニ、バス)
グレブ・ニコルスキー(ヴァルラム、バス)
ヘルムート・ヴィルトハーバー(ミサイール、テノール)
エレーナ・ツァレンバ(居酒屋の女主人、メゾソプラノ)
アレクサンダー・フェディン(苦行僧イロージヴィ/貴族、テノール)
ミハイル・クルティコフ(役人ニキティッチ/ジュスイット僧チェルニコフスキー、役人、バス)
ヴォイチェフ・ドラボヴィチ(農民ミチューハ/貴族フルシチョフ/ジュスイット僧ラヴィツキー、テノール)
ブラティスラヴァ・スロヴァキア・フィルハーモニック合唱団
ベルリン放送合唱団
テルツ少年合唱団
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1993.11.7-30録音)

ムソルグスキーに命を懸けたアバドの、タルコフスキー版を封印しての心機一転、ヘルベルト・ヴェルニケ演出版(同年4月のザルツブルク復活祭音楽祭での)舞台上演を踏まえて録音された、渾身の「ボリス・ゴドゥノフ」は洗練されたアンサンブルの、都会的で美しい演奏。
ムソルグスキーの土臭い、赤裸々な荒々しさは後退するものの、「ボリス・ゴドゥノフ」を音で楽しむに最右翼のひとつだと僕は思う。
なお、第4幕第1場は1869年版と1874年版が収録されており、興味深い。

タルコフスキー自身が『タイムズ』紙(1983年10月31日付)のインタヴューで次のように語っている。
「聖愚者をひとつの『人格』として描く傾向があるのですが、それはつまり、彼に個性があればあるほどいいからなのです。彼はムイシュキンやドン・キホーテと同じ血をひいています。彼もまた孤独であり、人びとがたどっている道が誤りであることを力説する使命をおびておるのです」
聖愚者のパートを、すばらしく歌いあげ、演じたのは、オーストラリアの歌手パトリック・パワーであった。彼はこの役を、頭に袋をかぶって演じた。このタルコフスキーの処理によって、この人物の盲目性が強調された。プーシキンの原作やムソルグスキーのオペラ化では、聖愚者はなによりもまず地上のことどもの本質を見すかす者で、高き宮城の壁の向うで行われる犯罪のメカニズムの秘密を、「民衆のまなこ」の前に描き出す—「皇帝ヘロデのために祈ることはならぬ」と。タルコフスキーの演出では、聖愚者はブリューゲルの『盲人の比喩』を思い出させる—地上の事物という、つねにつらくちっぽけで荒っぽいことどもの本質よりもむしろ、いと高きところにおわす最後の審判の裁判官、救い主を見てとるのである。

アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P423

果たしてヴェルニケ演出版を知らない僕には、この音盤の価値を云々する資格はないのかもしれないが、しかし、アバドが依頼したタルコフスキー版の素晴らしさを知る一人として、アバドのムソルグスキー愛、それを周知させんと尽力した精進に喝采を贈りたく久しぶりに繰り返し聴き込んだ次第。最高だ。

アバド指揮ベルリン・フィルのムソルグスキー歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(1993.11録音)を聴いて思ふ アバド指揮ベルリン・フィルのムソルグスキー歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(1993.11録音)を聴いて思ふ

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む