第二次世界大戦。
ドイツにとって戦況はもっとも暗い時期に入り、連合国軍の爆撃がドイツの都市を昼も夜も叩き続けた。家や工場、演奏会場や歌劇場がドイツの至るところで瓦礫と化し、灰燼に帰した。14世紀以来発達してきたドイツ文化の、目に見える証が焼失していった。ドレスデンでは、慈悲深いキリスト教精神への信仰を象徴するバロック様式の大聖堂が一夜にして消え去った。もっとも意気消沈させられたのは、一般の家屋が憂慮すべき規模で急速に破壊されつつあったことだ。フルトヴェングラーが住んでいたのはベルリンの近くにあるポツダムで、まだ爆撃を受けていなかったとはいえ、しばしば地下のシェルターへ避難しなければならなかった。そこではいつも何十人という女子供の中にあって、成人男性はフルトヴェングラーだけだった。彼の頭の中はいつも音楽でいっぱいだった。ひとたび本を読み出すと、それに没頭して周囲のことを忘れてしまった。
ふだんは決して話し好きではないのに、あるとき隣に座っている子供に彼はこう言った。「今日は空襲が大分ひどいものになりそうだよ。誰か男の人にいてもらうといいね」
少年は驚いてフルトヴェングラーを見上げた。「だけど、おじさんだって男の人でしょう！」
「いや、私はただの芸術家なのだ」とフルトヴェングラーは言った。
それは初老の音楽家が、自分はかつて人々にこの世の重苦しい現実を忘れさせようとした人物だったのに、今この防空壕の中にあっては、「男の人」ですらないという、「本当の」真実を子供に突きつけられた場面だった。
～サム・H・白川著／藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」（アルファベータ）P61-62
笑い話のように話だ。
しかし、フルトヴェングラーにとってそのことは真実だった。
世界がどんな状況にあろうと、彼には音楽しかなかったのだ。
そして、そのことが理由で戦後、彼は戦犯の嫌疑をかけられ、裁判にかけられることになった。そしてそれがもとで、多くの音楽家仲間からボイコットを受け、ニューヨーク・フィルの音楽監督の地位も見逃すしかなかった。
また、何人もの愛人を抱えていた彼が、エリーザベト・アッカーマンと結婚したのもこの頃のことだった。
フルトヴェングラーの新妻エリーザベトは、内科医として成功している異父姉マリアと同様あらゆる点で聡明だったが、家族や子供たちと生きることを選んだ。彼女にはすでに、前の結婚での4人の子供がいた。エリーザベトの最初の夫は弁護士で、ドイツ軍に加わっていたが、1940年にパリで射撃事故のため亡くなっていた。フルトヴェングラーには長期間にわたって関係を続けていた女性が数え切れないほどいたのだが、なぜマリアに関心がなくなったのか、その理由は永遠の謎である。ともあれ1940年に初めて会ってから間もなく、フルトヴェングラーの方がエリーザベトにすっかり惚れ込んでしまった。しかし彼が子供を4人も引き連れた寡婦エリーザベトとの結婚を考えていると思った人は誰もいなかった。とりわけエリーザベト自身、考えもしなかった。とはいえ彼女はまだ32歳、目のさめるような美人で、しかも過ぎ去った不幸な出来事によって植えつけられた英知と雅量を備えていた。彼は結局その後何年間にもわたってそれを頼りにするようになる。
～同上書P63
フルトヴェングラーは、いわば気を操る魔術師だった。
その意味では、決して聖人でもまして仏でもない。人々の心をとらえるその方法は、まさに我を忘れて音楽に没入することだったが、内側から湧き出る官能については常に音楽作品そのものと一体だった。とりわけ戦時中の録音は、ライヴ録音にせよスタジオ録音にせよ、戦後のものにはない激しいエロスが至るフレーズから発露されている。
ウィーンは楽友協会大ホールでの録音。戦時中とはいえ、クリスマス・シーズンの、敬虔な雰囲気の中で為されたその演奏は、水も滴る、豊饒な名演奏。「田園」交響曲について僕たちは戦後の名録音をすでに持っているが、何より1943年当時の、（戦争すら忘れ）忘我の境地で交響曲に命を懸けるフルトヴェングラーの覚悟が垣間見え、音楽の厳しさと豊潤さが絶妙に混淆されるところが見事だ。最初の二つの楽章の精神的な響きが美しい。
そしてまた、遅めのテンポでじっくり歌うハイドン変奏曲の哀愁。
終曲の解放が、戦争の終結を待望する喜びを表すようだ。
