ギャウロフ ヴィシネフスカヤ シュピース マスレニコフ タルヴェラ カラヤン指揮ウィーン・フィル ムソルグスキー 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(ボリショイ劇場版)(1970.11録音)

原「ボリス」、そして「ボリス・ゴドゥノフ」原典版に耳慣れると、リムスキー=コルサコフ版「ボリス・ゴドゥノフ」の洗練度合いに少々違和感を覚えるのは確か。
それでもカラヤンの名盤に触れると、即座に「ボリス」の魅力に憑りつかれる。
ブルックナーの場合と同様、原典も改訂もないということがわかる。何にせよそれぞれに役割があるということだ。

システムの矛盾。

弔辞で述べられたような「困難で危機に見舞われた時期」ではなく、創作上の最盛期をタルコフスキーは人生の終わりに経験した。しかし、国内に於けるよりも広汎な「仕事への権利」を得た彼は。これまで経験したことのない深刻な問題、つまりコマーシャリズムの強欲さ、繫雑さと衝突することになった。熱心な者は報酬なしでも働いていた愛すべき「モスフィルム」—彼はいつもこのように言っていた—や、作品の不合格が明らかになった時、『ストーカー』の素材の撮り直しを命じたゴスキノでさえ、善良な言葉でもって思い出さねばならない。それほど辛い瞬間があった。プロデューサーは決して解決してくれなかっただろう! このように、タルコフスキーは映画製作の二つの矛盾したシステムが持つ苦労を、両ながら直接経験したのだった。
かつては官僚的な管理と闘い、そして今では商取引のため闘って力を消耗し、対立は強固になり、断固たる自己防衛のため疲労が重なっていった。再び身を守らなければならない上に自分の個性を、芸術の使命に対する自分の理解を維持しなければならなかった。天才というものは、周知の如く、芸術以外の利害によって動かされるあらゆる職業団体の中にあっては異質の存在である。質の高い創作上の燃焼のために存在するような職業団体は、今のところ世の中に存在しない。

(ネーヤ・ゾールカヤ/扇千恵訳「終わり」)
アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P229

たぶん、たぶんだけれど、1世紀前、同じような苦悩をモデスト・ムソルグスキーは体験したのではなかったのかと僕は想像した。そして、この論は次のように続けられる。

にもかかわらず、翼のある「金獅子賞」で彼に映画への道を与えたイタリアに対し、又、彼がロシアの歴史と民族の宝である「ボリス・ゴドゥノフ」に戻り、自分の名を20世紀のオペラ舞台で、革命家の一員に加えることを可能にしてくれたイギリスに対し、又、この小さな名誉ある古い映画国であるスウェーデンに対し—アンドレイ・タルコフスキーの同国人である我々は、彼の最後の傑作が生まれたことを感謝している。これらの国々は同じレベルにおいて、ロシアの文化(起源的に)、そして全ヨーロッパの文化に属している。
~同上書P229

ムソルグスキーの場合も、彼の芸術を世に知らしめるために周囲が尽力した。
リムスキー=コルサコフは、名作「ボリス・ゴドゥノフ」を改訂し、いわゆるムソルグスキー独自の語法からロマン派風の色彩豊かな音楽に変貌させ、大衆に認知させる役目を果たした。

どこの世界にあっても、生み出す者と世に広める者とは別人種なのである。
今や上演機会が少なくなったであろうリムスキー=コルサコフ版による名録音。

・ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(1896/1906-08リムスキー=コルサコフ改訂版)
ニコライ・ギャウロフ(ボリス・ゴドゥノフ、バス)
オリヴェラ・ミリャコヴィツ(息子フョードル、メゾソプラノ)
ナジェイダ・ドブリアーノヴァ(クセニヤ、ソプラノ)
ビセルカ・クヴェジッチ(乳母、メゾソプラノ)
アレクセイ・マースレンニコフ(シェイスキー公/白痴、テノール)
サビン・マルコフ(シチェルカロフ、バリトン)
マルッティ・タルヴェラ(ピーメン、バス)
ルドヴィク・シュピース(僧グリゴリー/ディミトリ、テノール)
ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(マリーナ、ソプラノ)
ゾルターン・ケレメン(ジュスイット僧ランゴーニ、バス)
アントン・ディアコフ(ワルラーム、バス)
ミレン・パウノフ(ミサイール、テノール)
マルガリータ・リロワ(居酒屋の女主人、メゾソプラノ)
グレゴリー・ラデフ(ニキーティキ、バス)
レオ・ヘッペ(ミチューハ、バリトン)
ズヴォニミール・プレルチェッチ(貴族の近臣/貴族フルシチョフ、テノール)
ルドルフ・フレーゼ(ジュスイット僧ラヴィツキー、バス)
パウル・カロリディス(ジュスイット僧チェルニコフスキー、バス)
ウィーン少年合唱団
ソフィア放送合唱団
ウィーン国立歌劇場合唱団(ノーバート・バラッチュ合唱指揮)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1970.11録音)

ムソルグスキーの原典版に対して、作曲者の死後、リムスキー=コルサコフは、1896年、オーケストレーションを主とした改訂版を出した。その際かなりのカットをしており、終幕の「ボリスの死」の場面と「クロームィの森の場面」の順序を逆にした。しかしその後この版のオーケストレーションは原作をそこなうものだという批判を受けたため、1906年再改訂してカットした部分を復元し、オーケストレーションも改めている。その後はこの形で上演されることが多かった。モスクワのボリショイ劇場は、1902年から、この版を基礎に「赤の広場」をイッポリトフ=イヴァノフがオーケストレーションしたものを加えて上演するようになった。
作曲家別名曲解説ライブラリー22 ロシア国民楽派」(音楽之友社)P115

カラヤンの演奏はこの、いわゆる「ボリショイ劇場版」に拠っている。
他人の筆が入ってこそのポピュラリティーというのか、元々地味な音調がまったく別の作品の如くの洗練された華麗な装いに変貌するのだからリムスキー=コルサコフやイッポリト=イヴァノフの技量の素晴らしさよ(ムソルグスキーへの尊崇の念からの賜物だろう)。

第4幕第2場「ボリスの別れ」のシーンのギャウロフの独白が真に迫る。音楽的にもここは頂点であり、何よりカラヤンの棒が写実的であり、聴いていて胸が熱くなる。
どんな版であれ、「ボリス」は「ボリス」であり、優劣は付け難い。傑作だ。

タルコフスキーの遺骸はまったく見ず知らずの人の墓に葬られていたのだ。大きな白い、どっしりとした構えの意匠を凝らした十字架が立っていて、そのしたにはラテン文字で大きく(ウラジーミル・グリゴーリエフ、1895-1973)と刻み込まれていた。そして、その名前のほんの少しうえに金属製の小さなプレートが貼りつけられ、そこにはおなじくラテン文字で、ひどく細かな文字が彫りこまれていた—〈アンドレイ・タルコフスキー1987年〉と(周知のように、彼が亡くなったのは1986年12月29日のことだ)。
(アーラ・デミードワ/杉里直人訳「タルコフスキーの墓」)
アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P528

天才は孤高だ、否、孤独だ。

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