ケーゲル指揮ドレスデン・フィル マーラー 交響曲第1番ニ長調(1979.11録音)

ヘルベルト・ケーゲルの最後の来日公演の実況録音はものすごい名演奏で、時折とり出して聴きたくなるのだが、例えばサントリーホールでの、「田園」交響曲の、あの終楽章コーダの、途轍もなく沈潜していく音調に突如として切り替わる瞬間の、背筋が凍るほどの畏怖は、果たしてベートーヴェンが望んだものかどうかわからないが、あれは指揮者の気質がそのまま音楽に反映されたもののようで、音楽が文字通り「気の世界」、すなわち「陰陽二気の世界」の賜物であることをあらためて確認するにつけ、それを超えた「真空」があそこで体現されているのではないかとさえ思われるものだ(実演で聴いてみたかった)。

彼は最晩年になってようやく音楽で「空(くう)」というものを表現できる境地に至ったのかと思い至ったが、実際にはその1年後、ピストル自殺をするのだから結局わかっていなかったことになる。

彼はひどい躁鬱病だったらしい。

かつて1度だけ聴いた音盤。そのときは素晴らしい演奏だと感嘆した。
10年ぶりに耳にして、そして、繰り返し聴いて、とんでもない躁鬱の気質が横溢する演奏だと思った。なるほど、これなら(僧鬱気質だったらしい)マーラー自身が望む形であったのだろう、まさにケーゲル自身の気質と一致していることに僕は必然を感じた。

そうなのだ! 作品は仕上がった! いま君を僕のピアノの脇に呼んで、聴かせたいものだ!
おそらく唯一君一人だけだ、この曲の中の僕が未知の新しい存在でないとわかっているのは。他の人たちにはびっくりすることがいくつもあるだろう! それほどとてつもないものになってしまった—まるで山の早瀬のように僕の胸中からほとばしり出るがままに! この夏には君にも聴いてもらわなくちゃ! 一撃の下に、僕の心中のあらゆる鍵という鍵が開いてしまったのだ! どうしてそうなったのか、その顛末は、一度君に話すよ!

(1888年3月、フリードリヒ・レーア宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P75

ここでいう作品とは交響曲第1番のこと。感嘆符の多さから、マーラーの興奮が窺える。

・マーラー:交響曲第1番ニ長調
ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団(1979.11.5-8録音)

ドレスデンはルカ教会での録音。
第2楽章など、間の取り方といい、ためを意図的に作る方法といい、よく聴くと、実に個性的なマーラーだといえる。
第3楽章の、何とも大道芸的な音の動きも、現世の苦悩を揶揄し、お道化るマーラーの遊びの精神を具現化するもので実に面白い。そして、その後に続く終楽章の白熱は、冒頭から人間離れしている。音楽は爆発し、弾け、うねり、同時にまた沈潜する。躁状態と鬱状態が混在する、いかにも人間的な名演奏だ。

おとといはここで私の《第一》をやりました。みたところ、さしたる反応なし。それにひきかえ私はこの若書きに心から満足しました。こうした作品はどれも、指揮するといつでも、妙な気分になる。燃えるような痛切な感情を結晶化している。すなわち、こんな響きと形姿を鏡像として投げかけるとは、これはいったいなんという世界なのか。葬送行進曲とそれにつづいて勃発する嵐のようなものが、私には、あたかも創造主への嘆願のように立ち現われるのです。
(1909年12月18日あるいは19日付、ブルーノ・ヴァルター宛)
~同上書P390-391

過去を振り返ったとき、若気の至りは確かにあろうが、自分には作品に対する大いなる確信があろうというもの。聴衆の反応などお構いなし。芸術家たる者、誰しも我が道を往く。

ケーゲル指揮ドレスデン・フィルのマーラー「巨人」交響曲(1979録音)を聴いて思ふ ケーゲル指揮ドレスデン・フィルのマーラー「巨人」交響曲(1979録音)を聴いて思ふ

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