ところが「レット・イット・ビー」の時には、もう僕ら、こんなゲームは続けられなくなってたのさ。互いに相手の心の奥が透けて見えるし、そうなれば居心地悪くなってくる。それまでは自分たちがやってること、自分たちが生み出すものを本気で信じてた。だからすべてをきちんとやらなきゃって気になった。僕ら信じてたんだよ。だけど急に信じられなくなった。もはや魔法を生み出すことはできない。そういうところまで来ちゃっていたのさ。
(ジョン・レノン、1976年)
~The Beatles アンソロジー(リットーミュージック)P317
短い時間の中での完全燃焼とでもいうのだろうか。
そのとき(終わり)は突然来た。
「レット・イット・ビー」という楽曲に至っては、ジョンは最後の年のインタビューで「ウィングスで演ったら良かったのではないかと思うくらいビートルズには要らない曲だ」というニュアンスで語っていたそうだから、あのときのセッションは彼にとって真に苦痛だったことがわかる。
ポールの考えってのはこうだ、みんなでサイモン&ガーファンクル風に完璧を目指してリハーサルする—そしてそれからアルバムを作る。だけど、言うまでもなく僕らは怠け者のバカヤローだろ、しかも20年近くも一緒にやってるんだ—大の大人がダラダラとリハーサルなんかやってられるもんか。そんなわけでみんな気が乗らなくて、何トラックかやるともう全員がやる気なくしてた。
とにかく最悪、恐ろしく不快だった。しかも四六時中カメラがまわってるんだぜ、どっか行ってくれって思ったよ。朝の8時からやってるんだ、朝の8時に音楽なんかできるかよ。いや、10時だろうが何時だろうが、あんな奇妙な場所じゃ無理だ。カラーの照明なんか当てられて、カメラで移されているんじゃね。
(ジョン・レノン、1970年)
~同上書P316
確かに、映画「レット・イット・ビー」でのタイトル曲の演奏を見るたびに、ポール以外誰も乗っていないことが歴然とわかる。名曲には違いないのだけれど、この楽曲がこういう背景の中で生み出されたことが逆に興味深い。
半世紀以上を経た今、あらためて観ても素晴らしい作品だと思う。
それに、アルバム・バージョンが作られたとき、ジョージが間奏のギター・ソロをあえて新たに録音し、それがまたジョージらしくない、激しい、ファブの効いた、ハードなもので、実にかっこ良く思ったものだが、それもこれも「アイ・ミー・マイン」のときの経験を生かして創出されたアイデアが本になっているのがまた興味深い。
ジョージは語る。
「アイ・ミー・マイン」は、エゴの問題を歌ってる。“私”にはふたつある。人が”私はこうです“っていう時の”私“は小さな”私”だ。それに対して大きな“私”—すなわち”オウム“は、すべてを備えた、完全な、全宇宙的な意識だ。そこには二面性も、エゴもない。すべては完全な統一体の中の一部なんだよ。小さな”私“がこの大きな”私“に溶け合った時、本当に目の前が開けてくるんだ!
(ジョージ・ハリスン)
~同上書P319
インド哲学にいち早く没頭したジョージは、理屈はわかっていたのだと思う。しかし、真理そのものとつながれたわけではないので結局実践できなかったし、体得したわけでもなかったことが残念だった(真理はあくまで実践だということ)。
ポール・マッカートニー作「レット・イット・ビー」の儚い美しさ。
・The Beatles:Let It Be (Album Version) (1970)
そして、ジョージ・ハリスン作「アイ・ミー・マイン」の奥深さ。
これらが(ある意味)補完関係にあったことが面白い。
The Beatles “Get Back with Don’t Let Me Down and 12 other songs” (2021) The Beatles “Let It Be”を聴いて思ふ