いつ終わりが来るのかわかっていれば誰も不安を感じないだろう。
残念ながら人の命の終わりについては誰にもわからない。あるときは、長寿を祝い、またあるときは儚さを嘆く。
ワルター・ギーゼキングは、ベートーヴェンのソナタ全集をEMIに録音中、病に倒れ、数日後帰らぬ人となった。享年60。何と今の僕の年齢である。前年12月に交通事故で妻を亡くし、まるで後追いするかのような死だった。
最後の録音は、ピアノ・ソナタ第15番ニ長調作品28「田園」。
3楽章までを録音したところ、膵炎による猛烈な腹痛に襲われ、病院に搬送。手術は成功したものの、術後の経過よろしくなく、3日後の1956年10月26日逝去。終楽章は結局録音されぬまま彼の音楽家生活は終わった。
残されたトルソー「田園」ソナタの素朴な音楽に心打たれる。
私はベートーヴェンのソナタから、きいてみたが、これは、もちろん、別に考えがあってのことではない。それまできいたことがなかったので珍しい気がしたからだというだけのことだ。
私の選んだのは、作品2の3のハ長調の曲だが、一口でいうと、拍子ぬけした。音はきれいだし、どこをとっても破綻はないけれども、それだけで終わってしまう。譜面を読んで、読んだとおりに弾いたというだけで終わってしまう。ペダルがほとんど使われず、ほとんどいつもイン・テンポで弾かれ、やたらとのび縮みしないのは、ある意味で痛快なくらいだが、第1楽章のはじめの主題も、そのあとの副主題たちも、同じように弾かれ、コーデッタのドルチェさえ、同じ表情なのである。展開部に入ってからのアルペッジョ、あるいはコーダに入ってからの即興的なカデンツァとしてのアルペッジョ、いつも同じである。このコーダはグルダやゲルバーたちは、遅くはじめ、次第にクレッシェンドしながら、山をつけ、おもしろくきかせようとしているのに、ギーゼキングのは、淡々と弾き、さらりと弾き終わってしまう。
~「吉田秀和全集13 音楽家のこと」(白水社)P356
吉田さんの失望がよくわかる。
ただし、いつもなら淡々と弾き、そのまま終わってしまうところが、最後の「田園」ソナタは未完成であるところが肝だ。そう、終わらないのである。
それゆえの「価値」と言ってしまったらおかしいかもしれないが、未完であるがゆえの永遠がこの録音には刻まれており、それがまた後世に聴く僕たちへの、ギーゼキングの粋な贈り物であるかのように僕には思えてならない。吉田さんは、ギーゼキングに会ったときの思い出をまた次のように語っておられる。
「Le maîtreは、エンジニアにうるさいことをいわれたり、同じ曲を何度もひき直させられたり、まして断片的にひき直させられるようなことは大嫌いなのでね」と相手はいった。
私たちは、そこで別れた・・・。
~同上書P367
あくまで自然の流れを重視し、自らの感性を信じたギーゼキングのベートーヴェンは、無為であるがゆえの美しさがおそらくあっただろう。たぶんそれは実演に触れない限りわからないものだと思う。
それは、同時期に録音された「月光」ソナタの静寂にも当てはまる。
まさか自身の死を予期していたわけではないだろうが、得も言われぬ寂寥感に満ちる音楽に言葉がない。