マルケヴィチ指揮ラムルー管 ベートーヴェン 「コリオラン」序曲作品62(1958.11.25録音)ほか

1812年、すなわちナポレオンがモスクワ遠征に出かけた年、カールスバートにきていたゲーテは、崇拝者の一人オーストリアの若い公女に招かれてテプリッツに出かけた。たまたまテプリッツにはベートーヴェンが滞在していた。ゲーテはかねてからお気に入りのベッティーナ・フォン・ブレンターノからベートーヴェンの話をさんざん聞かされていたので、自分のほうからベートーヴェンを訪ね、強い第一印象を受けたのであった。
それが7月19日のことで、翌20日には一緒にテプリッツの町を散歩し、21日もゲーテはベートーヴェンを訪ねた。23日にはゲーテにベートーヴェンはピアノを弾いて聞かせたりしたのである。
おそらくこの日あたりが二人の魂のもっとも近づいた瞬間だったに違いない。しかしそれは同時にゲーテはベートーヴェンを、ベートーヴェンはゲーテを、自分とは全く異質の天才と見極めた瞬間だったのであろう。のちにゲーテは神童フェリックス・メンデルスゾーンがピアノで弾く「第5シンフォニー」を聞き、「これをオーケストラで聞いたら家がひっくりかえってくるだろう」と拒絶的な態度を示したが、ベートーヴェンはベートーヴェンで『若きウェルテルの悩み』の作家が、格式張った宮廷顧問官に変身しているのを見て、ひどく幻滅しているのである。

「生活気分としての“ロマン派”」
「辻邦生全集19」(新潮社)P76

ここには目に見える言語を主体とする文学と、目に見えない音を主体とする音楽というものの差が如実に出ているように思われる。二人の天才が最終的に交わることのできなかったのには、相応の理由があるのだ(言葉、思考という壁を超えることができなかったのか?)。

マルケヴィチのベートーヴェンの序曲集。
久しぶりにアナログ盤(TLI-B-2)を聴いた。
以前、知人から譲り受けたものだが、カラヤンの60年代の交響曲全集の特典だったようで、これがまた重みのある、切れ味抜群のベートーヴェンで、音質も良く、とても気に入った。
デジタル・フォーマットではタワーレコードからリリースされていたマルケヴィチの交響曲選集に収録されていたのでそれなりに聴いてはいたが、音の伸びや柔らかさという点でアナログには遥か及ばない。

かつて大処分したアナログの諸音盤に思いを馳せる。
手元に残しておけば良かったと後悔するも、後の祭り。

自然と一体であることがどれだけ重要なことか、音楽ソフトの進化(退化?)と考え併せてみても、人間の感覚や感性に近い方がどれだけ心に染み入るか。

ベートーヴェン序曲集
・「コリオラン」序曲作品62(1958.11.25録音)
・「レオノーレ」序曲第3番作品72a(1958.11.26録音)
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72b(1958.11.29録音)
・「献堂式」序曲作品124(1958.11.28録音)
・劇付随音楽「エグモント」序曲作品84(1958.11.25録音)
イーゴル・マルケヴィチ指揮ラムルー管弦楽団

音楽の解釈一つとっても、あるいは音楽の表現一つとっても指揮者によって、あるいは演奏家によって様々。誰のどんな演奏を聴いてもベートーヴェンであるには違いない。
「コリオラン」序曲から衝撃が走る。

猛烈な勢いの「レオノーレ」序曲第3番。

そして、「エグモント」序曲の、颯爽たる生命力は、春の蠢きのようだ。

マルケヴィチ指揮ラムルー管の「レオノーレ」序曲第3番(1958録音)ほかを聴いて思ふ マルケヴィチ指揮ラムルー管の「レオノーレ」序曲第3番(1958録音)ほかを聴いて思ふ カラヤン指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集(1961-62録音)を聴いて思ふ カラヤン指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集(1961-62録音)を聴いて思ふ マルケヴィチ指揮ラムルー管のベートーヴェン「田園」交響曲ほかを聴いて思ふ マルケヴィチ指揮ラムルー管のベートーヴェン「田園」交響曲ほかを聴いて思ふ

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