私的にはジャン・シベリウスの最高傑作。
余分なものが削ぎ落され、無駄のない、凝縮された音の結晶。
諸君、なぜ無念を宗旨と立てるのであるか。それは、ただ口先で見性を説いても、本性を見ていない人は対象に対して意識を起こし、その意識ですぐに誤った考えを起こすため、あらゆる煩悩や妄想が、そこから出てくるからである。自己の本性は本来これであると認めるべきものはなにもないのである。もし認められるものがあってみだりに禍福があるなどと説くならば、これこそ人間の心を迷わす煩悩であり、因果を無視した妄見である。
~中川孝「六祖壇経」(タチバナ教養文庫)P95
西洋と東洋の交わる一点。ポスト・マーラーの第一はこの人ではないのか(ほぼ同時代者なのでポストとはいわないのかもしれないが)。
・シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105(1924)
レイフ・セーゲルスタム指揮トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団(2015.12.11Live)
トゥルク・コンサートホールでの収録。
完成からちょうど1世紀。渾身の交響曲第7番を以って結果的に札止め。交響曲第8番も完成しながら最後は作曲者自身によって破棄されたというが、こういう音楽を創ってしまったら後が続かないというのがよくわかる(ほぼ同時期に作曲され、より一層収斂されたアントン・ヴェーベルン的方法でもってしか術はなかったのだろうと想像する)。
自家薬籠中のジャン・シベリウス。
六祖恵能のいう見性体験たる音楽の核が垣間見える。
最初の一音からクライマックスを経て、最後の一音まで決して目を離せない(耳を離せない)奇蹟と言ったら言い過ぎか。
あまりに美しい。