朝比奈隆指揮NHK響 ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調作品67(1994.6.4Live)

この日、僕は客席にいた。
デッドな音響の、今一つ感興を削がれるNHKホールにあっても朝比奈隆の演奏会は特別なものだった。そして実際、堂々たる威容を誇るベートーヴェンの演奏に僕はいつも瞠目した。この日ももちろん感動した。
確かこの頃から始まった「一般参賀」もここには収録されており、延々と続く客席からの万雷の拍手喝采に朝比奈御大の目が潤む様子(?)もとらえられている。朝比奈隆の人気は似非ではなかった。こういうベートーヴェンは今やすでにないものだ。古き良き時代の記録としてではなく、永遠不滅の記憶として留めておきたい。

私がさきに述べたように、目覚めていると同時に夢みている人間のなかで準備されて生ずる、「目覚めておらず、ただ夢見ているだけの人間」としての天才は、徹頭徹尾アポロン的な性質のものである。これは、アポロン的なるものの前もって述べた特徴づけによればおのずから明らかな真理である。かくしてわれわれは、ディオニュソス的な天才をば、完全な自己忘却において世界の根源に帰一せる人間として定義せざるを得ない。かかる人間が、今や根源的苦痛から、かかる苦痛の反映を、己れの救済のために創り出すのである。またこの過程こそ、われわれが聖者において、偉大な音楽家において崇敬すべきところのものなのである。両者は、世界の反覆と世界の第二の流出にほかならない。
根源的苦痛のかかる芸術的反映が、己れのうちから、幻日としての第二の反映を創り出すとき、われわれはディオニュソス的アポロン的な共通の芸術作品を得る。われわれは、かかる芸術作品の秘儀にこのような比喩的表現によって近づこうと努めているのである。

塩屋竹男訳「ニーチェ全集2 悲劇の誕生」(ちくま学芸文庫)P262

ニーチェが誰をモデルにしたのかと考えると、リヒャルト・ワーグナー以外にないと思うのだが、おそらくワーグナーの師としてのベートーヴェンについてもその範を得たのではないかと想像する。根源的苦悩を携えたベートーヴェンの作品の内には、間違いなくディオニュソス的アポロン的な秘儀が存在するからだ。
ニーチェは続ける。

従って、経験的実在的な世界が夢幻におけるその反映もろともその前に注ぎ出されるかの一つの世界眼にとっては、かのディオニュソス的アポロン的な融合は、永遠にして不変の、否、唯一の鑑賞形式である。アポロン的な反照を伴わざるいかなるディオニュソス的な仮象も存在しないのである。
~同上書P262-263

これにてドイツ芸術におけるベートーヴェン=ワーグナー・ラインが確固としたものとなる。
ディオニュソス的アポロン的融合の最たるケースが朝比奈隆の指揮する交響曲第5番ハ短調だ。

・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
朝比奈隆指揮NHK交響楽団(1994.6.4Live)

早30年。
1980年代後半から90年代にかけて日本中を席巻した朝比奈ブーム(?)は僕の心にも火を点けた。東京での公演には大抵足を運んだが、飛び切りの名演奏のときもあれば、首をひねるような駄演のときもあった。人間朝比奈隆の出来不出来は大きい振幅を示したが、それでも僕は御大を追った。

こんなベートーヴェンのハ短調交響曲はほかにない。
もはや聴くことのできないスタイルでの、神々しいばかりの、渾身の大演奏に感無量(珍しく?暗譜のようだ)。

朝比奈隆指揮新日本フィル ベートーヴェン 交響曲第5番(1997.11.12Live)ほか 朝比奈隆指揮大阪フィル ベートーヴェン第5番(2000.5.3Live)ほかを聴いて思ふ

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